カトリック教会
ecclesia latina [羅] / Catholic [英]
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 「ローマ・カトリック教会」とも呼ばれ、約6億の信徒を擁する、世界最古にして最大のキリスト教組織。
 ローマ教会(ヴァティカン市国)を総本山とする。

 ローマ教皇を頂点とする徹底したピラミッド型ヒエラルヒー(聖職位階制)組織で構成される。バティカン市国にある教皇庁は、その行政府。
 聖職者の組織は、ローマ司教たる教皇を筆頭とする「司教」→「司祭」→「助祭」と下る聖職位階制と、教皇に認可された修道会から構成。
 教義上は三位一体、典礼上は七秘蹟を中心とするサクラメント (秘蹟) と、聖母マリアをはじめとする諸聖人への崇敬をとりわけ重視するのが特徴。

 カトリックとはキリスト教の最も古い宗派の一つである。
 キリスト教は誕生以来無数の分派を生んできた。キリスト教は、絶えざる分裂の歴史の中からの形成されてきたと言ってもいい。
 例えばアリウス派はニカエア宗教会議(325)で異端排斥され、北方のゲルマン人の間に広まったし、431年のエフェソス宗教会議で追放されたネストリウス派は東方へ逃れ、ササン朝ペルシアから中国の唐にまで広まった。
 これらの「異端」に対し、自分たちこそが「普遍的(カトリコス[希])」教会であると主張したのが、「カトリック」教会の語源である。その起源はアリウス派と戦ったアタナシウス派までさかのぼることが出来る。

 4世紀にローマ帝国でキリスト教が公認された時、帝国内には次のような5つの有力な「カトリック」教会があり、「五本山」と呼ばれた。

  1. ローマ教会……(帝国首都)
  2. コンスタンティノープル教会……(帝国第二首都)
  3. アンティオキア教会……(シリア州都)
  4. イェルサレム教会……(ユダヤ州都)
  5. アレクサンドリア教会……(エジプト州都)
(この他にアルメニア教会アビシニア教会[エティオピア]など)

 やがてローマ帝国が東西に分裂し、西ローマ帝国が消滅してしまうと、西方世界における人々の指導者としてのローマ教会の地位は非常に高くなり、ローマ司教は「ローマ教皇 (ローマ法王)」と呼ばれるようになる。

 一方、それ以外の東方諸教会は、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の首都コンスタンティノープル教会の支配下にあったが、カルケドン宗教会議 (451) の結果「キリスト単性説」が異端とされたことを不満とし、アレクサンドリア(コプト)教会 (457) 、アビシニア教会、アルメニア教会 (527) などが次々と離れていった。
 さらに、7世紀前半に中東に突如イスラム帝国が出現し、シリアやパレスティナ地方にあったアンティオキア教会やイェルサレム教会がイスラム教徒によって滅ぼされてしまう。
 その結果、東方の“正統”な教会としては、東ローマ帝国首都のコンスタンティノープル教会を残すだけとなってしまう。そのためこの教会は「ギリシア正教会」と呼ばれる。「正教 (オルトドクソス)」とは「正統的 (オーソドックス)」という意味である。

 こうして西には“普遍的”なローマの「カトリック」教会があり、東には“正統的”なコンスタンティノープルのギリシア「正教会」があるという形になった。両教会は、教義や、新来のスラヴ人に対する布教権などを巡っていつも対立した。
 そして1054年、ローマ教皇レオ9世の使節フンベルトゥスと、コンスタンティノープル総主教ケルラリオスとの大喧嘩によって、両教会は最終的に絶交してしまう。
 西ヨーロッパにおいてはその後しばらくローマ・カトリック教会が独裁的権力を振るうが、やがて国王が力をつけて教会から権力を奪ってゆく。
 衰えたカトリック教会にさらに大打撃を与えたのが、16世紀の「宗教改革」である。信仰とは個人の内面の問題であって、教会のお世話になる必要はない、というその主張は、組織としてのカトリック教会を危機に陥れた。
 「宗教改革」派(ルター派、カルヴァン派など)のことを一般に「プロテスタント(新教)」と呼ぶ。これに対比して、カトリックのことを「旧教」と呼ぶこともあるが、これは本来の意味からは遠く離れている。この時代にはカトリック教会も自己改革を行い、組織を立て直し、今日に至っている。

 なお、ギリシア正教は、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)が1453年にオスマン朝トルコ帝国に滅ぼされたため、コンスタンティノープル教会も滅んでしまう(ハギア・ソフィア寺院はイスラム教のモスクに改造されてしまった)。しかし正教の伝統はモスクワの総主教に引き継がれ、「ロシア正教」を生んだ。
 今日、ギリシア正教を始め、東ヨーロッパの東方正教は復活し、人々の信仰の器となっている。

=COLUMN=  歴史に見る「奇蹟」 ---キリスト教の知られざる歴史


= カトリック教会の歴史 =

2世紀 前半
 アンティオキア司教イグナティオス (35?〜107?) が初めて「カトリック教会」という言葉を用いる。

2世紀
 異端グノーシス派との神学論争を通じ、「司教職」「信条告白(クレド)」「経典(聖書)」を拠り所とする教会的基準が確立。カトリック主義の原理が固められた。

3世紀 ローマ帝国の迫害や、異端との闘争が続く。

313  ミラノ勅令
 ローマ帝国のコンスタンティヌス1世(大帝)、共同統治者リキニウス帝と共にキリスト教の信仰を公認。

325  ニカエア宗教会議 (第1回)
 コンスタンティヌス大帝の召集で、迫害経験者を含むキリスト教関係者300人が、小アジアのニコメディア市南方のニカエア [羅] (ニカイア [希] 、現イズニク) に集まり、教義統一を巡り論争。
 当時は教義を巡り次のような宗派があった。
  • アリウス派……キリストの「人」性を主張して神との同質一体を否定。ニコメディアのエウセビオスほか。
  • アレクサンデル派 (正統派)……神とキリストの「同質」性を強調。アレクサンドリアのアタナシオス他。
  • 中道派……カエザレアのエウセビオスほか。
 会議の結果、中道派がアレクサンデル (アタナシウス) 派と結んで、議定書案文に
 「父(神)と子(キリスト)は同質(ホモウジオン)である」
との一句を加え、両者の「異質」 (類似本質) を主張するアリウス派を排除。
 この会議で採択された信仰個条は「ニカエア信条」の原型となる。
 なお、イェルサレム、アンティオキア、アレクサンドリア、ローマの4つの総大司教座の「霊的等置」もこの時に承認された。

375頃
 ローマ司教ダマスス1世は、新約聖書の第1使徒ペテロに関する記述から、教義の決定権はローマ司教にあると主張し、教皇の概念を基礎付けた。
 こうしてローマ司教は使徒権の権威を利用して、地元ローマでは4世紀のうちに「教皇 (パパ)」と名乗り始めた。

381  コンスタンティノープル宗教会議 (第1回)
 アタナシウス派の正当性が再確認され、ニカエア宗教会議で採択された信仰個条が若干修正を施された上で決定された。 → これが一般に「ニカエア信条」と言われるものである。
 「三位一体」論を正統教理として採用。
 また、ローマ帝国東部の4総大司教座のうちコンスタンティノープルが第1の地位を占めることを確認。

392
 ローマ帝国のテオドシウス1世(大帝)、キリスト教を国教とし、異教神崇拝を禁じた。
 その際、アタナシウス派の教義が採用され、根強い勢力を持っていたアリウス派は最終的に追放されて、ゴート族、ヴァンダルなどの民族大移動前の東ゲルマン人たちの間に広まる。

395  テオドシウス大帝の死に伴うローマ帝国東西分治の最終的確定 (ローマ帝国の東西分裂)

5世紀
 ローマ、コンスタンティノープル、イェルサレム、アンティオキア、アレクサンドリアという5つの「総大司教座 (パトリアルカトゥス)」、いわゆる「カトリック5本山」が成立。
 それぞれは各・総大司教 (パトリアルカ) が統治。

431  エフェソス宗教会議
 西ローマ皇帝テオドシウス2世の召集で開催。
 「ニカエア信条」を再確認すると共に、マリアに「聖母」の尊称を与え、それに反対したコンスタンティノープル大主教ネストリウスを破門して追放した。

451  カルケドン宗教会議
 東ローマ皇帝マルキアヌスがローマ教皇レオ1世の要請で、コンスタンティノープルの対岸に位置する小アジアのカルケドン市で開催。
 キリストの「神性」と「人性」の完全な結合を主張するカトリック側が勝利を収め、キリスト論に於ける「神人二性一位格」が最終的に確認された。
 これによりキリストは神と人が融合した単一の性質を持つとした「キリスト単性論」が否定され、アリウス派、ネストリウス派と共に追放された。
 またこれを通じてローマ教皇レオ1世の教書の権威が高まった。
 だがレオは、会議がローマ司教とコンスタンティノープル司教の地位が等しいと宣言したことに抗議、ローマ司教の優位を主張した。

5世紀半ば  西方世界に於けるローマ教会の卓越的地位がほぼ確立
 ゲルマン諸族の侵入と西ローマ政府崩壊の混乱の中で、ローマ教会は卓越した地位を獲得。
 同時に教義理論の上でも、ローマ司教の特権的地位が確立。イエス・キリストの第1使徒ペテロの殉教の墓地の上に建てられたローマ教会は他の教会よりも上に立つのは道理であり、その指導者であるローマ司教は、ローマ教会初代司教と伝えられるペテロの後継者として「ペテロの座」を受け継ぐ者であり、「地上に於けるキリストの代理」なのであった。
 そして、個人への破門だけでなく、地域全体に対する破門=インテルディクトゥム (その地での教会の勤行・儀礼の中止)権を通じて、神の国への門を開くことも閉ざすこともできる「鍵の権」を持つことをも主張し、「教皇(パパ)」の称号を取るようになった。
 ここにローマ・カトリック主義の基礎が固まった。

476  西ローマ帝国の消滅
 ローマ消滅後、カトリック教会はゲルマン民族の教化につとめ、特にフランク族と深く結び付き、自分たちの保護者とすることで東ローマからの干渉を避けようとした。

6世紀  修道院の発展
 キリスト教修道院は順調に発展し、特にそこに寄進される土地財産や生産物の売上はカトリック教会の重要な財源となった。
 特に東方の修道院は東ローマ帝国の国政を左右するほどの政治的勢力に成長。
 西方でも、ヌルシアのベネディクトゥス (480〜543) がモンテ・カッシーノ修道院を建て、ベネディクト修道院の基礎を据えて以来、ローマ教皇の忠実な臣下となった。
 こうして築かれたローマ教皇の国家は、他の西欧諸国とほとんど変わらない封建国家であって、教皇は世俗君主と同様に農奴から収奪した。

553  コンスタンティノープル宗教会議 (第2回)
 東ローマ帝国のユスティニアヌス帝によって召集され、単性論と正統派信仰の調停が試みられたが、ローマ教皇と決裂して「シスマ (教会分裂)」を引き起こした。

680  コンスタンティノープル宗教会議 (第3回)
 コンスタンティヌス4世は帝国の政治統一を尊重し、単性論を改めて否定してローマ教皇庁と完全に和解。

8世紀 半ば  『コンスタンティヌスの寄進状』
 ローマ教皇ステファヌス2世ないしその側近による偽文書。コンスタンティヌス大帝はローマ司教に自分と等しい権力を与え、全西方世界を教皇に委ね、自分はコンスタンティノープルに隠退した、というもの。

800年12月25日  フランク国王カール大帝がローマ教皇レオ3世から西ローマ皇帝の冠を受ける

9世紀 半ば  『偽イシドルス法令集』
 これもカトリック側による偽文書。ローマ司教こそ他の全ての司教に対して支配権を持つ。また世俗君主は教会の問題に介入してはならず、宗教的権力に従属せよ、というもの。

9世紀 半ば  フィリオクエ論争
 東西教会間で次のような論争が発生。
  • 東方教会 (コンスタンティノープル教会他) ……聖霊は「父なる神」のみから生ずる。
  • 西方教会 (= ローマ教会) ……聖霊は「父なる神」のほか、「子なる神キリスト」からも生ずる。
 これを「子からも (フィリオクエ) (filioque)」論争という。
 その背景には、東方教会の宣伝活動を利用して勢力を広げようというビザンツ (東ローマ) 帝国の政治的意図があった。
 ローマ教会は、他の東方教会と結託したコンスタンティノープル教会と鋭く対立。

867  東西教会の対立激化
 コンスタンティノープル総主教フォティオスは、コンスタンティノープルでの東方教会の会議の席上でローマ教皇ニコラウス1世を破門 (アナテマ)、東方教会の問題にローマ教皇が介入したのは違法と断ずる。
 9世紀終わり、両教会は表面上は和解する。

10〜11世紀  ローマ教皇権の弱体化
 イスラム・アラブ人とノルマン人の攻撃による西欧社会の衰弱を反映し、ローマ教皇も力を失い、イタリア封建領主たちの傀儡と化す。
 教皇は地元貴族の名誉職となり、教皇位を巡って何人もが同時に教皇を名乗ることも珍しくなかった。
 ローマの名門婦人マロツィアも介入し、一族や愛人を教皇の座に付けた。
 その一人セルギウス3世 (904〜911) は前任者二人を絞首刑に処してからヴァティカンに乗り込んでいった。
 マロツィアの孫オクタヴィアヌスは18歳で教皇になり、ヨハネス12世と名乗ったが、地元ローマの封建領主たちを抑えるため、ドイツ国王オットー1世の権威を借りようと考えた。

962  オットー大帝の神聖ローマ皇帝への戴冠
 ドイツ国王オットー1世(大帝)は、ローマ教皇ヨハネス12世の要請を受け、961年にイタリアに進軍し、ベレンガールの制圧下にあった教皇を救出。
 翌962年、ヨハネス12世はオットーにローマ帝冠を授け、ここに「神聖ローマ帝国」成立。
 しかしオットーは北イタリアを自分の領地と考えて略奪遠征を繰り返し、教皇は1世紀近くドイツ皇帝の操り人形になる。

1046  スートリの教会会議 (ローマ教皇の権力回復)
 イタリア領主間の争いでシルヴェステル3世、グレゴリウス6世、ベネディクトゥス9世が教皇位を巡って争っていたが、ドイツ皇帝ハインリヒ3世が開催したスートリの教会会議で3人はいずれも退位させられ、代わってドイツ人司教クレメンス3世が教皇になった。

1049
 ドイツ皇帝ハインリヒ3世は、別のドイツ人司教を教皇レオ9世とする。

1054  東西教会の最終分離
 11世紀前半、南イタリアの僧侶は東西どちらの教会に従うべきかという論争が起こり、コンスタンティノープル総主教ミカエル・ケルラリオスとローマ教皇レオ9世が対立した。
 1054年、ローマ教皇はケルラリオスを破門し、その勅書をコンスタンティノープルのソフィア寺院に運んで行った。ケルラリオス側も教皇使節を破門に処した。
 これ以後、両者は全く独立であることを公然と宣言し、それぞれ別の道を歩んでいく。
  • 西方教会 (ローマ) ……ローマ・カトリック教会
  • 東方教会 (コンスタンティノープル) ……ギリシア正教会

11世紀  クリュニー修道院改革運動
 クリュニー修道院はアキテーヌ公ギヨームが910年にブルゴーニュに建てたベネディクト派修道院だが、その初代院長ベルノーは権力からの独立、戒律の励行などを柱とする改革を実行。
 これは彼を継いだオドーや、「クリュニー王」と呼ばれるオディロといった歴代院長に受け継がれた。
 クリュニー改革運動は、フランス全土はおろか、スペイン、イタリア、ドイツを含む幅広い地域に急速に広まった。運動は中央集権的な組織を持っており、最盛期には2000以上の修道院がクリュニー派に属した。
 クリュニー運動の特色は次のようなものである。
  • 独身制 (コエリバトゥス)……妻帯僧侶が教会財産をかすめて子に遺産として分け与えることを防ぐ。
  • 規律強化
  • 僧侶の世俗領主からの独立
  • 聖職売買 (シモニー) の禁止
  • 世俗権力による聖職叙任への反対……聖職者の任命権は本来、神が教会に与えた秘蹟の一つであり、神聖ローマ皇帝がローマ教皇を任命する現状は、一種の聖職売買であると見た。
 最初はハインリヒ2世、ハインリヒ3世など神聖ローマ皇帝もこの運動を支持したが、最後の「叙任権拒否」が問題となり、間もなく「叙任権闘争」を導く。

1059  ラテラノ宗教会議
 クリュニー改革運動から強い影響を受けた僧侶ヒルデブラントの尽力により、ローマ教皇ニコラウス2世は、教皇は枢機卿 (教皇に次ぐ高位の聖職者で、教皇が任命) の互選によってのみ選出されるという教書を発表。また世俗者による聖職叙任も否定した。
 同年、ローマ教皇庁はドイツの圧力に対抗するため、南イタリアに根城を持つノルマン騎士であるノルマン伯リシャール (リッカルド [伊]) とロベール・ギスカール (ロベルト・イル・グィスカルド [伊]) と同盟を結んだ。ノルマン人たちはローマ教皇を封建主君と認め、ドイツ皇帝が攻めてきた時には教皇のために戦う誓約を結んだのである。

1073〜1085  ローマ教皇グレゴリウス7世
 ヒルデブラントがローマ教皇に選ばれ、「グレゴリウス7世」となる。
 1075年、「教皇宣言」を発し、「教皇には、皇帝を退位させ、その家臣を忠誠の誓いから解き放つ権利がある」と宣言。また、教皇は宗教会議よりも上に立つと述べる(教会の無謬性)。

1076年2月  グレゴリウス7世によるドイツ皇帝ハインリヒ4世の破門
 神聖ローマ (ドイツ) 皇帝ハインリヒ4世 (位1056〜1106) は国内の修道院を支配下に置こうとしたが、修道院側は地元貴族と結託して国王支配に抵抗。ローマ教皇グレゴリウス7世はドイツ皇帝を破門に処した。
 1076年10月の会議で、破門満1年に当たる翌年2月までにハインリヒが赦免を得られなければ、彼は皇帝の座を失うものと決議された。

1077年1月  カノッサの屈辱
 ハインリヒ4世は教皇グレゴリウス7世に許しを乞うため、厳冬にアルプス山脈のモン・スニ峠を越え、トスカナ辺境女伯マティルダの居城カノッサに辿り着いた。ここに教皇グレゴリウスが泊まっていた。
 国王ハインリヒの懇願にも関わらず、始めは頑として接見を拒んだ教皇だが、マティルダ夫人やクリュニー修道院長ユーグらのとりなしで、ハインリヒがカノッサ城外で痛悔の実を示すことを条件に、教皇はうなずいた。
 こうして皇帝ハインリヒは、わずかに粗毛の修道衣をまとっただけで、ただ一人、無帽、裸足で3日間雪の中に立ち続けた。その後ようやく城内に迎え入れられ、破門を解かれたのだった。

1085  教皇グレゴリウス7世の憤死
 ドイツ皇帝ハインリヒ4世は、教皇グレゴリウス7世の赦免を得た後、権力再建に成功し、反対派諸侯が立てた対立国王ルドルフを1080年に攻め滅ぼす。
 危険を感じた教皇グレゴリウスは、ハインリヒを再び破門に処すが、ハインリヒは逆に対立教皇を擁して大軍と共にローマ市に攻め上り、トスカナ辺境女伯マティルダを破り、教皇グレゴリウスをサンタンジェロ城に囲んだ (1083) 。
 間もなく、ビザンツ遠征から引き揚げたばかりのノルマン騎士ロベール・ギスカールが、封建主君たる教皇の救援に駆けつけたので、ハインリヒはローマから退いたが、ノルマン軍はローマでもひどい略奪を働いたので、教皇グレゴリウスはローマに留まれなくなり、ロベールと共に南伊サレルノ市に逃れ、悲憤慷慨の余り死んでしまった (1085)。

 こう見てくると、ハインリヒに赦免を与えたことは、明らかに教皇グレゴリウスの失策だった。「カノッサの屈辱」は、事件の見かけに反して、恥を堪え忍んで巻き返しの機会を手に入れた国王ハインリヒの政治的勝利だった。
 しかし、ハインリヒの勝利が、そのままドイツ皇帝権のローマ教皇権に対する勝利にはならなかった。それどころか、ローマ教皇権は絶頂まで登り詰めるのに、ドイツ皇帝権は空洞化し、やがて倒壊してしまうのである。

1095  クレルモン宗教会議
 ローマ教皇ウルバヌス2世は十字軍遠征を決議させた。

1096〜1270  十字軍遠征

1122  ヴォルムス協約
 神聖ローマ (ドイツ) 皇帝ハインリヒ5世は、ローマ教皇カリクトゥス2世と叙任権に関する妥協案で合意。
 「叙任権闘争」は一応終結。

1123  ラテラノ宗教会議 (第1回)
 ヴォルムス協約を確認し、教会は聖職者の叙任権を確保する一方、聖職者の独身制を維持し、聖職売買を引き続き禁止した。

12世紀末〜13世紀末  ローマ・カトリック教会の極盛期
 インノケンティウス3世からボニファティウス8世に至る間、ローマ教皇は「教皇は太陽、皇帝は月」と呼ばせるほどの最盛期。ヴォルムス協約を確認し、教会は聖職者の叙任権を確保する一方、聖職者の独身制を維持し、聖職売買を引き続き禁止した。

1209  フランチェスコ修道会創立
 アッシジの聖フランチェスコが創設。1223年、ホノリウス3世が公認。

1209〜1229  アルビジョワ十字軍
 異端アルビジョワ派討伐のためにインノケンティウス3世が派遣。

1215  ドミニコ修道会創立
 スペイン人ドミニコが創設。1216年、ホノリウス3世が公認。

1303  アナーニ事件 (アナーニの屈辱)
 ローマ教皇ボニファティウス8世と争っていたフランス王フィリップ4世の顧問ギヨーム・ド・ノガレは、教皇の敵対者シアラ・コロンナと結び、1303年9月7日未明、ボニファティウス8世の故郷アナーニ市を騎士約600人、徒歩従士約1,000人で急襲し、教皇を捕らえた。
 9日、同市民の反撃によりノガレらは退却、教皇は騎兵400に守られて12日にローマに帰還したが、屈辱から乱心し、10月11日に没した。
 教皇権の絶対性を主張していたボニファティウス8世が国王権力に敗れたこの事件は、ローマ・カトリック教会最盛期の終わりを象徴する。

1309〜1377  教皇のバビロン捕囚 (アヴィニョン捕囚)
 「アナーニ事件」後、ローマ教皇はフランス国王のロボットとなり、ボルドー大司教から教皇になったフランス人のクレメンス5世 (位1305〜1314) は、ボニファティウス8世がフランス国王に加えた非難を全て取り消した上で南仏ローヌ川左岸にあるアヴィニョン市に住み着いた。
 これ以来7代69年間に渡って教皇はアヴィニョンに足止めを食らわされた。

1378〜1417  シスマ (教会大分裂)
 ローマ教皇グレゴリウス11世は「教皇のバビロン捕囚」から解き放たれ、1377年にローマに帰還した。
 しかし彼が翌1378年に死ぬと、ウルバヌス6世が選ばれたが、フランス人枢機卿は対立教皇クレメンス7世を立てアヴィニョンに戻った。
 こうしてローマ側では4代、アヴィニョン側では2代の間、教皇が並立した。
 ローマ教皇はドイツ、イギリスなどの支持を集め、一方アヴィニョン教皇はフランス、スコットランド、アイルランド、ポルトガルなどに支援された。

1409 ピサ宗教会議
 「シスマ (教会大分裂)」解決のため召集。
 ローマの教皇グレゴリウス12世とアヴィニョン教皇ベネディクトゥス13世を廃してアレクサンデル5世を選んだが、前者二人が受け入れなかったので、かえって3人の教皇が鼎立する状況となった。

1414〜1417  コンスタンツ宗教会議
 ドイツ皇帝ジギスムントの提唱により、教皇ヨハネス23世が召集。
 中世最大の宗教会議で、参加者5万人を含むあらゆる種類の人々10万人が南ドイツの小都市コンスタンツに集まった。
 主な議題と結果は次の二つ。

  • 教会大分裂 (シスマ) の解決 → 統一教皇マルティネス5世を選出。ローマ教皇グレゴリウス12世の退位と、ピサ宗教会議選出教皇の後任ヨハネス23世の廃位は1415年、アヴィニョン教皇ベネディクトゥス13世の罷免は1417年。
  • 異端の審議 → 会議出席中のフスと、プラハのヒエロムニスを異端者として処罰。フスは火刑に処せられる。また亡くなっていたウィクリフの遺体を焼き、両者の説を謬説として禁止。

 こうしてカトリック教会の分裂は収拾され、異端の動きも封じ込めたが、教皇のアヴィニョン捕囚とそれに続くシスマがもたらしたカトリック教会の権威の低下を押し止めることは出来なかった。異端の動きは間もなく宗教改革として噴出してくることになる。

15世紀後半 ルネサンス教皇
 イタリアの経済繁栄とルネサンス文化の華やかさにカトリック教会も巻き込まれ、フッガー家、メディチ家への経済依存やネポティズム (縁故主義) の蔓延が教会の腐敗に拍車をかけた。

1517  ルターの宗教改革開始
 1517年秋、ヴィッテンベルク大学の神学教授ルターは『95ヶ条の意見書』を発表して、カトリック教会がサン・ピエトロ寺院改築資金を集めるために大々的に販売している免罪符 (贖宥符) を批判。
 1519年のライプツィヒ討論で教皇権の否定に至り、公然とカトリック教会に反旗を翻した。

1534  首長令 (イギリス宗教改革)
 イギリス国王ヘンリー8世は妻カザリンとの離婚を認めてもらえないため教皇パウルス3世と対立、遂に首長令を発布してローマ・カトリック教会から独立した。

16世紀  宗教改革と反宗教改革、宗教戦争
 ルターカルヴァンらが進めた改革により、ドイツ、スイス、オランダ、北欧の大部分はプロテスタント (新教) となった。イギリスも独自の理由でカトリック教会を離れた。
 一方、カトリック側からの改革と反撃 (反宗教改革) の動きは、スペインのイグナティウス・ロヨラによる「イエズス会 (ジェズイット教団) 」の創設 (1540) トリエント宗教会議 (1545〜1563) の開催、ハドリアヌス6世、クレメンス7世、パウロ3世などすぐれた教皇の登場などで具体化した。
 新教とカトリックとの対立から発生した宗教戦争には次のようなものがある。

  • 1546〜1547 シュマルカルデン戦争……ザクセン選帝侯らドイツの新教諸侯及び帝国都市が中独シュマルカルデンで結成した新教同盟軍と、ドイツ皇帝カール5世を中心とする旧教派との戦争。皇帝派が一時勝つが、最終解決は1555年のアウグスブルクの和議まで待たねばならなかった。
  • 1562〜1598 ユグノー戦争……フランスの新教徒ユグノーとカトリックの対立に、絶対王政成立過程の政治闘争が重なって勃発。1572年のサン・バルテルミーの虐殺で内乱は激化。争乱のさなかヴァロワ朝は断絶し、ブルボン朝のアンリ4世が即位、ナントの勅令を発布して終結。
  • 1568〜1648 オランダ独立戦争……スペイン王フェリペ2世の圧制に対し新教徒ネーデルラント住民が反抗。1579年に南部10州 (現ベルギー) が脱落、北部7州は「ユトレヒト同盟」を結び、1581年オランニェ公ウィレム1世を指導者に独立を宣言。英仏の反スペイン政策に助けられ、1609年にスペインと休戦。ウェストファリア条約で国際的に独立を認められる。
  • 1618〜1648 三十年戦争……ボヘミア王フェルディナントの新教徒弾圧に始まった戦争にハプスブルク家とブルボン家の対立が絡んで国際戦争に拡大。デンマーク、スウェーデン、フランスが新教派に、スペインが旧教派に味方して介入。両派とも疲弊してウェストファリア条約を結び、終結。

 しかし宗教戦争には宗教以外の要因が絡んでいることがほとんどで、純粋に宗教や信仰、教義の不一致だけで起きている戦争は一つもない。

1789〜1799  フランス革命  
 カトリック教会に対する圧迫・迫害を引き起こした。

1873〜1880  文化闘争  
 ドイツ帝国の宰相ビスマルクは帝国の統一強化のため、南西ドイツのカトリック勢力の力を削ごうとして、教会を弾圧。
 カトリック政党の中央党は猛反発し、教皇も介入して大問題となったが、やがて社会民主党に対する対策のためにビスマルクが妥協に出たため、紛争は終了。

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更新日:2002/03/30

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