チャールキヤ朝
Chalukya  6世紀〜753
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 東インド中部デカン高原に栄えた中世王朝。

 次の3系統がある。

  • (バーダーミの)チャールキヤ朝 (前期西チャールキヤ朝) ……〔時代〕 6世紀〜753 〔首都〕 ヴァーダーピ(現バーダーミ)
  • 東チャールキヤ朝……〔時代〕 8〜11世紀後半 〔首都〕 ヴェーンギー
  • 西チャールキヤ朝 (後期西チャールキヤ朝) ……〔時代〕 973〜12世紀後半 〔首都〕 カルヤーニ
 本家のチャールキヤ朝は、混乱を避けるため「バーダーミの」チャールキヤ朝と呼ばれることがある。
 バーダーミのチャールキヤ朝は、デカン地方に広大な領土を有し、長年、南方のパッラヴァ朝と食うか食われるかの死闘を続ける。
6世紀中頃  初代 プラーケシン1世
 ヴァーダーピ(現バーダーミ)に都を定め、のちの繁栄の基礎を築く。

6世紀後半  第2代 キールティヴァルマン1世
 初代の子。版図を拡大。

6世紀後半
 この頃、バーダーミ石窟寺院の第1〜3窟が造営される。
 本格的なヒンドゥー教石窟の最古の一つで、天井に神像その他の浮彫を施す伝統も開始。

6世紀末〜610頃  第3代 マンガレーシャ
 こちらも初代の子。ボンベイ州南半分とデカンを支配。

= 女装の刑 =

 中国僧の玄奘 (げんじょう) は、プラケーシン2世の治世である641年にチャールキヤ朝を訪れ、『大唐西域記』にその様子を記録している。それによれば土地は肥沃で農業が盛んで、家臣は勇敢で主君に忠節を尽くしたという。
 戦闘の前には酒や阿片が振る舞われ、兵士たちは高揚した気分のまま、勇猛な象に乗って突進した。
 戦いに敗れると、王は全軍の前で士官に女の衣服を着せた。名誉を重んじる勇壮な武士たちにとり、この懲罰は死刑以上にこたえたようで、当時は盛んに行われたという。

610頃
 王位継承を巡る内乱で、第2代王キールティヴァルマン1世の子プラケーシン2世が、叔父マンガレーシャを殺して内乱を鎮定し、王位に就く。

7世紀前半  第4代 プラーケシン2世
 グルジャラ、ラータ攻略。カダンバ朝を征服。
 また、北インドで強大だったハルシャ・ヴァルダーナのデカン南進を阻止して領域拡大。
 東方ではアーンドラ地方を征服、弟のヴィシュヌヴァルダナを派遣してこれを治めさせた。 → 7世紀半ばにヴェーンギーに都し、独立して東チャールキヤ朝を開く。
 さらに南方タミル地方の支配者パッラヴァ朝を破り、その北部地方を併合した。 → しかし、以後これをきっかけに両王朝間に抗争が繰り返されることとなる。

7世紀半ば
 プラーケシン2世の晩年、チャールキヤ朝はパッラヴァ朝に大敗を喫して首都ヴァーダーピを失い、王朝支配は十数年に亘って空白を余儀なくされる危機に陥る。
 首都を奪われたチャールキヤ朝は、デカン高原へ退かざるをえなくなり、ヴァーダーピから30km離れたパッタダカル (「ルビーの王冠の都」の意) の町を新首都とした。ここは王族ゆかりの「戴冠の都」でもあった。
 パッタダカルには7〜8世紀に大小8つのヒンドゥ寺院 (全部シヴァ神を祀る) と多くの小祠堂が建設され、チャールキヤ朝宗教建築の最盛期を示現すると共に、インド東〜中部の寺院建築に大きな影響を与えた。
 そこでは、中世インドの建築様式の北方型と南方型の区別がまだ確立しておらず、インド各地域のスタイルが未分化に混淆している。これは、チャールキヤ朝各地から建築家や美術家が集められたことを示している。

654/65〜681  ヴィクラマーディティヤ1世
 654年頃、王朝を再興。
 パッラヴァ朝を破って失地を回復、立ち直る。

8世紀初頭  第7代 ヴィジャヤーディティヤ
 最も平和で安定した時代。

733/34〜744/45  第8代 ヴィクラマーディティヤ2世
 再盛。
 パッラヴァ朝と激しく争って敵都カーンチーを3度にわたって占拠し、圧倒。
 デカン進出を企てたアラブ勢力をアラブ人も打ち破る。

 740年頃パッラヴァ朝の首都を攻めた際、その建築文化の高さに感銘を受け、建築家グンダを初めとする南部の石工や工匠たちを多数連れ帰った。 → その結果、パッタダカルの寺院建築は、パッラヴァ朝のカイラーサナータ寺院やマハーバリプラム諸寺院などの影響を強く受けることに。
 ヴィクラマーディティヤの王妃ローカ・マハーデーヴィは、夫の勝利を記念して、パッタダカルで最大のヴィルーパークシャ寺院を造営。 もう一人の王妃も、マッリカールジュナ寺院を建てて記念とした。
 なお、パッラヴァ文化の影響は彫刻にも著しい。

 封臣たちが次第に土着の有力者と化してゆき、封建的な分裂の危険が増大。

753
 第9代国王キールティヴァルマン2世が、封臣だったラーシュトラクータ朝のダンティドゥルガに廃されて、チャールキヤ朝は滅ぶ。

973
 チャールキヤ朝の子孫と称するタイラ2世、ラーシュトラクータ朝を滅ぼして西チャールキヤ朝を開く。

■ チャールキヤ朝の遺跡群 ■

 バーダーミの石窟寺院群パッタダカルの寺院群は、後年のイスラム勢力の侵入でも大きな破壊を免れ、中世インドの寺院建築を示す貴重な遺跡として知られる。
 特にパッタダカル (南インドのカルナータカ州ムンバイ(ボンベイ)南東約460km) の寺院群は、当時の「寺院都市」のあり方を示す貴重な例であり、また南方型と北方型の両様式の寺院が混在することでも知られ、1987年にユネスコ世界遺産の「文化遺産」に登録された。
 パッタダカルのヒンドゥ寺院は次の通り。

  • 大寺院 3つ …… 南方型の様式を示す。 シカラ (聖堂の屋根) がピラミッド型をしているのが特徴。
    • マッリカールジュナ
    • ヴィルーパークシャ
    • サンガメーシュワラ
  • その他の寺院 5つ …… のちの北方型のシカラに似た塔 (屋根が砲弾型) を伴う。 南北両要素を混合した「デカン型」もあり、低いシカラ(または平らな屋根)が特徴。
    • ガラガナータ
    • カーシーヴィシュワナータ
    • ジャンブリンガ
    • カダシッデーシュワラ
    • パーパナータ

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©1998 早崎隆志 All rights reserved.
更新日:1998/08/31; 2002/9/1; 2004/10/4

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