チェチェン共和国
Chechen  1936〜 
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チェチェン地図 (12KB)
 ロシア連邦南部、北カフカス地方の共和国。
 「チェチェン」は国名で、地域名は「チェチニャ (Chechnya) 」。

 ソ連時代には、西隣イングーシと合わせて、ロシア共和国内の「チェチェン・イングーシ自治共和国」を形成していた。

[主都]:グロズヌイ
[面積] (西隣イングーシと合わせて) 1万9300km2
[住民] (西隣イングーシと合わせて) 約58%がチェチェン人、13%がイングーシ人。 (1989)
[人口] (西隣イングーシと合わせて) 127万人 (1989)
[宗教]:スンナ派のイスラム教徒が多い。

1859
 ダゲスタンと共にロシア帝国に併合される。

1917
 ロシア革命でロシアにソヴィエト政権成立。

1921
 北カフカス山岳部に「山岳自治共和国」成立、チェチェンも含まれる。

1922
 イングーシ自治州と合同。

1936
 ソ連邦下、ロシア共和国内の「チェチェン・イングーシ自治共和国」として成立。

第2次世界大戦
 ドイツ軍占領下に。

1944
 対独協力の口実で、スターリンは両民族約50万人を中央アジアなどに強制移住。
 半数が死亡したと言われる。

1957
 名誉回復後に共和国が復活。

1991年11月
 共和国大統領ドゥダーエフはソ連から独立を宣言。
 しばらく緊迫した対峙が続く。

1991年12月
 ソ連解体。

1992
 チェチェン共和国からイングーシ共和国が分離独立。
 イングーシはその後、西隣の北オセチア共和国 (ロシア連邦に所属) と領土紛争を抱える。

1993
 ドゥダーエフ派と反対派が対立、内戦に。

1994〜1996  チェチェン紛争 (第1次ロシア=チェチェン戦争)
 ロシア軍はチェチェンの分離独立阻止のため、チェチェン内戦に介入。

1994年12月
 ロシアのエリツィン政権、大規模に軍事介入。

1995
 首都グロズヌイが陥落。

1995
 ドゥダーエフ戦死。

1996
 ロシアは後継のヤンダルビエフ大統領代行らと停戦を交渉。

1996年8月末
 独立派のマスハドフ参謀総長がロシアのレベジ安全保障会議書記と停戦合意。
 独立については5年間凍結することで合意(ハサビュルト合意)。

1997年1月
 ロシア軍撤兵。

 チェチェン紛争の死者は8万人。チェチェン難民22万人が隣接3共和国ダゲスタン、イングーシ、北オセチアに逃亡。

1997年初頭  チェチェンの大統領選挙

1997年5月  ロシアとの間で和平条約を調印。

 しかし、その後も情勢は安定せず、周辺地域で爆弾テロ等が繰り返される。

1999年8月7日
 チェチェンの一部イスラム原理主義勢力が、隣接するダゲスタン共和国 (ロシア連邦に所属) をロシアの支配から解放すると称して越境侵入、ロシア軍との間に戦闘再開。

同年9月4日
 ダゲスタンで軍人家族用アパートが爆破され64人が死亡。

同年9月9日
 モスクワのアパートが爆弾テロの犠牲になり94人死亡。

同年9月13日
 上記テロの犠牲者の「追悼の日」と定められたこの日、モスクワで再び、70名以上の死亡者を出す爆弾事件発生。
 モスクワ当局は、これら一連の事件(計5件、死者約300)はチェチェンのイスラム原理主義者が関わっていると断定。
= 軍事制圧が生み出すテロの温床 -- チェチェンの場合 =

 大国は意のままにならない小国を力で簡単に潰せると考える。軍事力の行使は、外交手段の一環としか考えていない節もうかがえる。
 だが、単なる外交交渉や経済制裁と、物理的に人間を殺すということが、どれほど大きな違いであるかをしばしば忘れがちだ。
 それは人道上の観点からだけでなく、目的を達成するためのコストとしても、あまりにも高くつき過ぎるのである。
 イスラエルはパレスティナを何十年も徹底攻撃し続けているが、反抗やテロは一向に収まらず、イスラエル社会・経済を常に不安定化させ、圧迫している。
 アメリカはヴェトナム戦争に突入したため、国内は混乱して騒乱状態となり、経済は破綻してドルの価値は急落し、1970年代の世界を危機に追い込んだ。
 ソ連はアフガニスタンに侵攻し、その人的・経済的軍事負担が体制崩壊の一つの引き金となった。
 そして、この侵攻に対抗するためにアメリカが資金を提供して作らせたゲリラ組織は、後にその一部がテロ組織「アル=カイダ」となり、21世紀初頭のアメリカに本土攻撃を仕掛け、世界に計り知れない衝撃と影響を与えたのは記憶に新しい。
 チェチェン紛争も、そうした軍事介入が生み出した悪循環の典型のように見える。

 2度にわたるロシアとの戦争で、国土は荒廃し尽くした。20万人以上が難民として流出し、帰還は進んでいない。駐留ロシア軍の規律は乱れ、民間人への暴行・略奪は日常茶飯事となっている。
 住民はロシアへの憎しみを日々はぐくみ、若者は教育を受けることも出来ず、武器の扱いだけに詳しくなる。紛争の長期化が人々を絶望感へ追い立て、自暴自棄のテロへと走らせる。
 「ロシア政府は何千人ものチェチェン人を人生に意義を見いだせない状態まで追い込んでいる」(独立派を率いるマスハドフ前大統領)。
 実際、2002年の劇場占拠事件の50人の犯人たちは20代前半の若者が中心で、うち18人は女性。多くは爆破装置を体に巻き付けていた。彼らは治安部隊との戦闘で死ぬことが望みだった。

 家や財産を破壊され、奪われ、家族や恋人、友人たちを殺されたら、何に希望を持てばいいのか? 仕事に就こうにも、敵が支配し、日常的に暴行を受けるような社会で、人生の目標が敵への復讐にすり替わるのは、当然とも言えるのではないか?
 本来チェチェン人の望みは、単に自主国家の建設だった。それを、ロシア人殺害のテロへと差し向けてしまったという点で、ロシアの力の政策は大いなる過ちと言えよう。
 テロ再生産の悪連鎖を断ち切るには、力による対決ではなく、むしろ、被抑圧地域の生活条件を向上させ、人生はテロで自爆するよりずっと価値のあるものだと理解させるしかない、と思われるのだが……
(参考:2002年10月28日付『日本経済新聞』朝刊)

1999〜   第2次ロシア=チェチェン戦争
 チェチェンの反露強硬派を駆除するため、ロシア軍は再びチェチェンに侵攻。

1999年9月29日
 ロシア軍、チェチェン領内に侵攻開始。

同年12月4日
 ロシア軍、首都グロズヌイを完全包囲と発表。

同年12月25日
 ロシア軍、本格的なグロズヌイ制圧作戦開始。

2000年2月1日
 チェチェン武装勢力、首都グロズヌイからの撤退を表明。

 ロシア側戦死者は1500人以上。

2002年9月
 イングーシ共和国でチェチェンの独立派武装勢力がロシア軍と衝突、94人死亡。

2002年10月10日
 グロズヌイの警察庁舎で爆弾テロ。25人以上死亡。

2002年10月23日〜26日
 チェチェン武装勢力がモスクワの劇場を占拠。
 26日、特殊部隊が突入して犯人一味を射殺、人質を解放。その際に使用された特殊ガスの影響により人質多数が死亡。
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更新日:1999/09/16, 12/26, 2000/02/17; 2003/01/25

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