キリスト教信徒の礼拝所、またはその組織。
カトリックの教義によれば、教会は、この地上において唯一、罪びとを救う霊的な力(権限)を神から与えられている。
本来、ギリシア語の「エックレーシア (ekklhsia)」は市民の「会議」のことだが、『新約聖書』でキリスト信者の団体を示す語として用いられて以来、「教会」という意味で用いられるようになった。
歴史上、教会が成立したのは、イエスが処刑された過越の祭から50日経って行われた五旬節 (ペンテコステ) の祭の時だった。この時イェルサレムに集まっていた信徒たちの上に聖霊が降り、信徒たちは奇跡を行う能力を手に入れて熱心な伝道を開始する(「使徒行伝」第2章)。
この集会 (エックレーシア) が「教会 (エックレージア)」の前身であり、ユダヤ教のこの祭日「五旬節」はキリスト教の祝日「聖霊降臨祭」となった。
だから、神と聖霊によって建てられた教会は、すでにその存在自体が神の意志を示す神聖なものだ、という。逆に言えば、教会以外には、罪を許すという神の権能を代行出来る者はいないのである。ローマ教皇ボニファティウス8世 (位1294〜1303) は、その有名な教勅「唯一の聖なる (ウナム・サンクタム)」の中で「教会の外には、救いも罪の許しもない」と断言する。
では、教会の中でも、特にローマ教会 (ローマ・カトリック教会) が特別な地位を与えられるのはなぜか?
『新約聖書』「マタイによる福音書」第16章第18節で、イエスは、自分をキリスト(救世主)と認めた弟子のシモン (ペテロ) を祝福し、「あなたはペテロ (岩) である。そして私はこの岩の上に私の教会を建てよう」と述べている。そして、ローマ市で殉教した第一使徒ペテロの墓の上に建てられたのが、ローマ教会 (サン・ピエトロ [聖ペテロ] 大寺院)なのである。
これこそが、ローマ優越の主張の根拠である。だから、ローマ教会はキリストが建てることを命じた唯一の神聖な教会であり、ローマ教皇は第一使徒ペテロの地位を継ぐものだ、という主張がなされた(註)。
註……但し「教会」という言葉が福音書ではマタイ伝(上記箇所と18.17)にしか見られないので、現代の聖書学者は、上の言葉はイエス自身のものではなく、マタイの属した原始教団が付加したものと考えている。
=COLUMN=
歴史に見る「奇蹟」 ---キリスト教の知られざる歴史
= 教会史 =
- 1世紀半ば
- イェルサレムに原始教会成立 (推定)。
- 2〜3世紀
- ローマ帝国の迫害や異端との闘争にも関わらず、教会はローマ帝国領各地に広がる。
- 313 ミラノ勅令
- コンスタンティヌス1世(大帝)によるキリスト教公認。
- 325 ニケーア宗教会議 (第1回)
- 「父なる神」と「子なるキリスト」を「同質」とし、アリウス派を排除。
- 381 コンスタンティノープル宗教会議 (第1回)
- ニケーア宗教会議で採択された信仰個条に若干修正を施して決定。これが一般に「ニケーア信条」と言われるもの。
その一節、
「唯一の神聖にして普遍的な教会(ウナム・サンクタム・カトリカム・エックレーシアム)を信ずる」
が、キリスト教の教会観を決定。
- 392
- テオドシウス1世(大帝)、キリスト教を国教とする。
- 5世紀
- ローマ、コンスタンティノープル、イェルサレム、アンティオキア、アレクサンドリアという5つの「総大司教座 (パトリアルカトゥス)」、いわゆる「カトリック5本山」が成立。
- 5世紀半ば 西方世界に於けるローマ教会の卓越的地位がほぼ確立
- 6世紀 修道院の発展
- 553〜680 東西教会の分裂 (第1回)
- 単性論を認めないローマ教皇と、コンスタンティノープル総主教を中心とした東方諸教会とが決裂。
- 9世紀 半ば 東西教会間で「フィリオクエ論争」
- 867〜9世紀末 東西教会の分裂 (第2回)
- 1054 東西教会の最終分離
- 南イタリア僧侶の支配権を巡ってローマ教皇レオ9世とコンスタンティノープル総主教ミカエルが破門合戦。
- 11世紀 クリュニー修道院改革運動
- 11世紀半ば〜1122 叙任権闘争
- 1077年1月 カノッサの屈辱
- 修道院を支配下に置こうとしたドイツ皇帝ハインリヒ4世 (位1056〜1106) は1076年2月、教皇グレゴリウス7世 (位1073〜1085) から破門された。
1076年10月には諸侯会議で翌年2月までに赦免を得られなければハインリヒは廃位と決議された。
そこで1077年1月、ハインリヒは、教皇グレゴリウスが泊まるカノッサ城の前で3日3晩、裸足で雪の中に立ち続け、ようやく破門を解いてもらう。
その後勢力を立て直したハインリヒ4世は、1083年に教皇グレゴリウスをサンタンジェロ城に囲む。
教皇は臣下のノルマン騎士ロベール・ギスカールにより救出されるが、南伊サレルノ市で憤死 (1085)。
- 1095 クレルモン宗教会議
- ローマ教皇ウルバヌス2世、十字軍遠征の詔勅を発布。
- 1096〜1270 十字軍遠征
- 1122 ヴォルムス協約
- 神聖ローマ (ドイツ) 皇帝ハインリヒ5世は、ローマ教皇カリクトゥス2世と叙任権に関する妥協案で合意。
「叙任権闘争」は一応終結。
- 12世紀末〜13世紀末 ローマ・カトリック教会の極盛期
- インノケンティウス3世からボニファティウス8世に至る間、ローマ教皇は「教皇は太陽、皇帝は月」と呼ばせるほどの最盛期。
- 1209 フランチェスコ修道会創立
- アッシジの聖フランチェスコが創設。1223年、ホノリウス3世が公認。
- 1215 ドミニコ修道会創立
- スペイン人ドミニコが創設。1216年、ホノリウス3世が公認。
- 1303 アナーニ事件 (アナーニの屈辱)
- ローマ教皇ボニファティウス8世と争っていた仏王フィリップ4世の顧問ギヨーム・ド・ノガレが教皇をアナーニ市で襲って監禁。間もなく解放されるが、憤死。
- 1309〜1377 教皇のバビロン捕囚 (アヴィニョン捕囚)
- 「アナーニ事件」後、教皇は仏王のいいなりとなり、フランス人のクレメンス5世 (位1305〜1314) 以来7代69年間に渡り、南仏ローヌ川左岸アヴィニョン市に滞在させられる。
- 1378〜1417 シスマ (教会大分裂)
- 1377年「教皇のバビロン捕囚」から解放された教皇グレゴリウス11世はローマに帰るが、翌1378年に死ぬと、ローマとアヴィニョンで別々の教皇が立ち、ローマ側では4代、アヴィニョン側では2代の間、教皇が並立。
- 1409 ピサ宗教会議
- 「シスマ」解決のため召集されたが、かえって3人の教皇が鼎立する混乱となった。
- 1414〜1417 コンスタンツ宗教会議
- 中世最大の宗教会議。「シスマ」を終わらせると同時にフス、ウィクリフという2大批判者を異端として処罰。
フスは火刑、亡くなっていたウィクリフも遺体を掘り返して改めて焼いた。
- 16世紀 宗教改革と反宗教改革
- ルター (1517より) 、カルヴァンらが進めた改革により、ドイツ、スイス、オランダ、北欧の大部分はプロテスタント (新教) となった。イギリスも国内統治の理由でカトリック教会を離れた (1534 首長令)。
一方、カトリック側からの改革と反撃 (反宗教改革) の動きは、スペインのイグナティウス・ロヨラによる「イエズス会 (ジェズイット教団) 」の創設 (1540) 、トリエント宗教会議 (1545〜1563) の開催、ハドリアヌス6世、クレメンス7世、パウロ3世などすぐれた教皇の登場などで具体化した。
- 16世紀半ば〜後半 宗教戦争
- 新教とカトリックとの対立に政治・経済的要因が絡み、戦争も発生。
- 1546〜1547 シュマルカルデン戦争
- 1562〜1598 ユグノー戦争
- 1568〜1648 オランダ独立戦争
- 1618〜1648 三十年戦争
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