クレオパトラ
Kleopatra [希]Cleopatra [羅]   前69〜前30年
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 エジプトのプトレマイオス王朝最後の女王。
 正式には「クレオパトラ7世」(位51〜30BC)。
 美貌と教養・機知を併せ持ち、ローマの有力者を手玉に取ったとして古代随一の有名な女性。

 マケドニア系の血を引き、プトレマイオス12世アウレテスの次女。
 はじめカエサル、その暗殺後はアントニウスの愛人となって王権の維持に努めたが、オクタウィアヌス(後のアウグストゥス)率いるローマ軍との決戦(アクティウムの海戦)で敗北して自害し、プトレマイオス朝エジプトは滅亡し、ローマ領となった。

=Contents=

  • クレオパトラ年表
  • [読み物] ローマとクレオパトラ


    = クレオパトラ年表 =

     
    51 BC
     父王プトレマイオス12世アウレテスの遺言により、弟プトレマイオス13世と結婚、共同統治者となる。

    49 BC  
     弟プトレマイオス13世に王位を追われる。

    48 BC  
     共和政ローマの内乱で、ファルサロスの戦いに敗北したポンペイウスがエジプトに逃れてくるが、上陸直前カエサルに殺される。
     エジプトに進軍したカエサルは、首都アレクサンドリアに入城、エジプトの主権問題を処理。
     この際、クレオパトラはカエサルに取り入って愛人となり、王位を回復。
    = クレオパトラは美人か? =

     ローマの有力者を次々と色気で籠絡するクレオパトラ……中国の楊貴妃と並べ称せられる傾国の美女の典型とされ、大哲学者パスカルを、

     クレオパトラの鼻がもっと低かったら、この全地上は異なっていただろう。
    と言わしめるほどの絶世の美女……と考えられていたが、実際はどうも違うらしい。

     2001年春に大英博物館で開かれるクレオパトラ展に、従来別人とされ、今回新たに彼女のものと推定された像11点が展示される。それらを総合すると、背が低く、太っており、鼻も大きなワシ鼻というクレオパトラの姿が浮かび上がる。
     時代によって美人の基準が違うので、だからクレオパトラが美人でないとは言い切れないが、ほぼ同時代に描かれたプルタルコスの『アントニウス伝』でも、妖艶な美貌というより、教養と魅力的な会話で男心をくすぐったらしいことが伝えられている。

    47 BC
     カエサルはクレオパトラを助け、彼女の敵対派を撃破し、エジプトの乱を平定。

     その後クレオパトラはローマに住み、カエサルの子カエサリオンをもうける。

    前44年3月15日
     カエサル暗殺

     クレオパトラはエジプトに帰国。

    42 BC
     カエサルの養子オクタウィアヌスとアントニウス、レピドゥスの3人はカエサル暗殺者を追い、フィリッピの戦いで敗死さす。
     その後アントニウスはエジプトに向かい、クレオパトラは彼に接近。

    41 BC
     クレオパトラはアントニウスの愛を得て結婚、2子をもうく。

    32 BC
     オクタウィアヌス、アントニウス及びクレオパトラ征討の軍を起こす。

    前31年9月2日  アクティウムの戦い
     エジプト海軍敗北

    30 BC
     オクタウィアヌスのエジプト入城。
     クレオパトラは自殺。(アントニウスも別の場所で自害)
     ここにプトレマイオス朝は滅亡し、エジプトはローマ領に加えられる。

    [読み物] = ローマとクレオパトラ =

       古来、エジプトのプトレマイオス朝には兄妹(姉弟)結婚による王位相続という奇妙な伝統があった。
     クレオパトラ7世も実の弟プトレマイオス13世と結婚し、共同統治していた。
     だが間もなく二人は不和になり、姉は首都アレクサンドリアを追放された。
     ちょうどそこへ、ローマ随一の実力者カエサルが、政敵ポンペイウスを追って到着した。

     かねてカエサルと対立していたポンペイウスは、「わしが足で地面をどんと踏み鳴らせばイタリア中の軍勢がわしの下に馳せ参じるわ」とうそぶき、「じゃここらで一つどんと踏んでくれ」と皮肉られていたが、いざ実際にカエサル進攻の報に接すると、さっさとイタリアを逃げ出し、ギリシア北部のファルサロスでカエサルに敗れ、プトレマイオス朝エジプトへ逃れたのである。

     カエサルはポンペイウスにエジプト上陸を許さず、ポンペイウスはアレクサンドリアに入る前に暗殺されてしまう(48B.C.)が、ローマ随一の実力者カエサルの到来という好機を、姉クレオパトラは見逃さなかった。
     才色兼備の彼女はさっそくカエサルに取り入り、彼を虜にした。彼女は、世に言われるほど美人ではなかったが、才気溢れる会話や優美な仕草、それらの醸し出す気品ある高貴な雰囲気が、男心を捕らえて離さなかったのだろう。
     カエサルは彼女のためにアレクサンドリアの市民を敵に回して戦い、貴重な大図書館を焼失するという犠牲を払い、クレオパトラを女王の位に復してやった。
     その後、カエサルはクレオパトラを伴ってローマに戻り、元老院派の残党を次々に打ち破り、勢力を強めた。一方、救貧・植民事業や太陽暦(ユリウス暦)の採用など精力的に諸改革を行い、植民政策では首都の浮浪者(無産市民)を植民に送り出し、首都の治安を悪くしていた彼らを32万人から15万人に減らした。
     しかし共和政の伝統を重んずる共和主義者たちは、権力集中を進める独裁者カエサルを憎み、暗殺した(44B.C.)。
     クレオパトラは急遽エジプトへ帰国した。

     だが暗殺者たちはカエサルを慕うローマ市民に石もて追われ、カエサルの遺将アントニウスによって、ギリシアのフィリピで全滅した(42B.C.)。

     問題は、カエサルの後継者は誰か、である。カエサルの遺言では、養子のオクタウィアヌスが相続人に指定されていたが、彼には全く軍事的な才能がなく、誰と戦っても負けてばかりいた。人気も実力も、アントニウスの方が遥かに優っていることは明白だった。
     ところが、クレオパトラはこの前途洋々たるローマの指導者アントニウスを次なる獲物に定めたのである。
     アントニウスはクレオパトラと熱烈な恋愛に陥り、人生を狂わしてしまう。甘美な恋に全く骨抜きとなった彼は、東方の騎馬帝国パルティアへの遠征に失敗し(36B.C.)、前34年にはローマの属州の一部を勝手にクレオパトラに与えてしまい、ローマ国民の怒りを買う。さらには、彼がエジプトに定住してクレオパトラと結婚し(33B.C.)、クレオパトラより美しかった貞淑な妻オクタウィア(オクタウィアヌスの姉)を離婚して、「死んだらクレオパトラと共にエジプトのアレクサンドリアに埋めて欲しい」との遺言状をしたためたことが知れた時、ついにローマには「裏切者アントニウス討つべし」の世論が高まった。
     こうして翌年(31B.C.)、全イタリアはオクタウィアヌスに忠誠を誓い、クレオパトラに対する宣戦が布告された。

     最大の決戦はアクティウム(ギリシア沖なので正確には「アクティオン」)沖で行われたが、アントニウスが、得意の陸戦で決するという意見を引っ込め、海戦を主張するクレオパトラに従った時に、勝敗は既に決していた。海戦に於いても、勢力は伯仲していたのに、クレオパトラはその艦隊を率いていち早く逃亡し、アントニウスも彼女の後を追った。残された兵士たちはそれを知らずになおも数日間戦っていた。
     恋する二人の末路は哀れだった。翌年8月1日アレクサンドリアが陥落した時、クレオパトラは地下墓室にこもり、アントニウスに、自分は死んだが嘆くな、と告げさせた。彼をローマに帰らせようと思ったのだろう。しかしこれを真に受けたアントニウスは悲嘆の余り自刃して果てた。それを知ったクレオパトラも、オクタウィアヌス側監視の目を盗み、玉の肌を毒蛇の牙にゆだねて命を絶った。ここにプトレマイオス朝は滅び、肥沃なエジプトはローマ属州に加えられた。
     最終的な勝者はオクタウィアヌスだった。彼はローマ世界を再統一し、100年に亘る内乱に終止符を打っただけでなく、「アウグストゥス」という称号を得て、ローマ帝国の初代皇帝の地位に就くのである。

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