コンゴ
Congo
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 アフリカ中央部、コンゴ川流域の広大な地域。

 アフリカ中央の赤道付近を、全長4370km、流域面積約400万km2のアフリカ第2の大河コンゴ川が流れる。
 ザンビア北部の山地に発するルアプラ川がルブア川となり、シャバ地方に発するルアラバ川に合流、さらに北流し、スタンリー滝を経たところでコンゴ本流となる。
 その後キサンガニから西流、ロマミ川を合わせてコンゴ盆地の大動脈をなし、南西に転じてウバンギ川、カサイ川を合わせキンシャサに至る。
 以後は急流をなし、広大な河口部で大西洋に注ぐ。  

 コンゴ川本支流の流域の大部分はコンゴ盆地に占められている。
 高原や山地で囲まれた盆地で、最低部の標高約200m。ほぼ中央を赤道が通っており、典型的な熱帯雨林気候地帯をなしている。
 東部に標高3000〜5000mの山地があり、東部国境にはアルバート湖、エドワード湖、タンガニーカ湖などの湖が並ぶ。
 南部のシャバ (旧・カタンガ)州は高原地帯をなし、銅、コバルト、スズ、亜鉛、マンガン、ウランなどの鉱物資源が豊富。

 主要な交通路はコンゴ川で、電源開発計画も進められている。

 古代より様々な文明・王国が盛衰した。
 特に14〜15世紀に栄えたコンゴ王国は、同地バントゥー文化の一大頂点を形成。
 同王国の広大な領域は、ヨーロッパの進出により、20世紀に

  • ガボン南部
  • コンゴ共和国
  • コンゴ民主共和国
  • アンゴラ北部
の4ヶ国に分断された。
 以下では、この4ヶ国中最大の面積・人口を持つコンゴ民主共和国の歴史を追おう。

5世紀
 コンゴ川上流域にクバ王国が存在。

5世紀
 シャバ(カタンガ)州にバントゥー系ルバ(バルーバ)族が存在、鉄器文化で栄えていた。
 ルバ族は北方系ツチ族と同様にハム語族に属すという説もあり、「チルバ語」という独自の言語を持つ。

10世紀頃〜
 ピグミーと呼ばれる狩猟採集民が古くから住んでいたが、やがて北・北西からバントゥー系農耕民が流入し、多くの王国を建設。

13 / 14世紀〜19世紀末  コンゴ王国 
 バントゥー系のコンゴ族の王国。
 中・東アフリカにまたがる強大な国で、強固な国家組織を有した大国だった。
 王都はンバンザ・コンゴ(現アンゴラ領)。

1482
 ポルトガル人がコンゴ川河口に初渡来。

1485
 ポルトガル人はロアンゴ王国に到達。

15世紀
 ポルトガル人がこの地を探検した時、次のような王国が栄えていた。
  • ロアンゴ王国……「ルアンゴ」「ブラマ」とも。河口付近。15世紀初め頃にバントゥー系バテケ族が建国した一種の連邦国家。
  • コンゴ王国……「バ・コンゴ」とも。大西洋岸。コンゴのバントゥー系諸王国中最も強力。当初、ポルトガル人との間で交易やキリスト教の受容などを巡り、対等の交流を行う。
  • ルバ王国……内陸のルアラバ川上流。シャバ(カタンガ)州に住むバントゥー系ルバ(バルーバ)族の国家で、豊富な鉱物資源、特に鋳鉄で栄えていた。

1490
 コンゴ国王ンジンガ・ンクウ、カトリックに入信。

16世紀前半
 コンゴ国王ンジンガ・ムパング(アフォンソ1世)は、ヴァティカンなど各国と国交、西欧文明の取入れに熱心。
 1541年、この王が死ぬと、コンゴ王国の没落が始まる。
 息子のエンリケはアフリカ最初のキリスト教司教として独自の教会を建てようとするが果たせず。

16世紀〜
 ポルトガル人は大西洋奴隷貿易を拡大。コンゴ地方は奴隷供給地と化す。
 コンゴ王国はポルトガルの奴隷狩りに抵抗するが、周辺の勢力との戦乱も重なり、王国は著しく衰退。

 コンゴ王国はロアンゴ王国を攻撃、バテケ族を大西洋岸から内陸コンゴへ追いやる。

16〜17世紀
 内陸のルアラバ川上流にルンダ王国栄える。
 バントゥー系ルンダ族は本来カタンガ・シャバ地区の住民だが、東アンゴラ、北西ザンビアなどへ拡大。ルバ族と共にコンゴ王国の衛星部族国家を建てる。
 象牙ハンター及び奴隷商人としてヨーロッパでも知られていた。

17世紀
 コンゴ盆地中南部、東カサイ州〜西カサイ州にクバ王国栄える。
 その彫像や仮面、独特の音楽は、西洋人が「アフリカ」をイメージする典型ともなっている。

17世紀
 フランスが進出。

17世紀末
 コンゴ王国は事実上滅亡。
 あとは19世紀末の完全消滅まで最後の100年ほど名目的に存続したにすぎない。

19世紀初め〜
 バントゥー系フツ族の一支族バニャムレンゲがコンゴ東部に徐々に移住。

19世紀前半
 D. リヴィングストンがコンゴ川上流部を探検。

19世紀後半
 ベルギー国王レオポルド2世に委託されてスタンリーがコンゴ川全流域を探検。レオポルド2世はコンゴでの権益を拡大。

1882
 ベルギー国王レオポルド2世は、コンゴの植民地経営のためにコンゴ国際協会を設立。

1885  コンゴ盆地条約
 ベルリン会議において欧米15ヵ国が「コンゴ盆地条約 (またはコンゴ条約)」に調印。
  • コンゴ川の自由航行
  • 流域の戦時中立化
  • 同地方における奴隷売買禁止
  • 自由通商
  • コンゴ国際協会の国際法上の主体性ならびにそのコンゴ川流域統治権の承認
などが決められ、結果としてコンゴ(キンシャサのコンゴ)の植民地は「コンゴ自由国」としてベルギー国王レオポルド2世の私有地とされた。
 なお、フランスが権益を築いたコンゴ盆地北西端(ブラザヴィルのコンゴ)はフランス領とされた。

19世紀末
 フランスは中央アフリカのピグミーの分布域にも進出。

1908
 「コンゴ自由国」はベルギー政府に植民地として譲渡される(ベルギー領コンゴ)。

1910  フランス領赤道アフリカ
 フランスは、現在のガボン、コンゴ共和国、ウバンギ・シャリ(現・中央アフリカ)、チャドをまとめて植民地「フランス領赤道アフリカ」を形成。

第2次大戦後
 民族独立運動が高揚。

1958
 フランスは仏領赤道アフリカ・コンゴー州(ブラザヴィル・コンゴ)を、フランス共同体内の自治共和国とする。

1960年7月  コンゴ共和国 (キンシャサ) 独立
 ベルギー領コンゴ(キンシャサ・コンゴ)は「コンゴ共和国」としてベルギーから独立。

1960年8月  コンゴ共和国 (ブラザヴィル) 独立
 フランスは、フランス共同体のコンゴ自治共和国(ブラザヴィル・コンゴ)を「コンゴ共和国」として独立させる。

1960年7月〜1965年3月  コンゴ動乱
 独立直後のコンゴ共和国 (キンシャサ) で激しい内乱が勃発、東西冷戦を背景に長期化。
1960年7月
 軍隊の反乱が開始。
 ここに旧宗主国ベルギーが、カタンガ州(現シャバ州)の豊かな鉱物資源に目を付け、自立心の強いルバ族の独立運動を隠密に支援。 → 反乱は地方に拡大、カタンガ州の分離独立が宣言される。

同 年9月
 南カサイもこれにならう。

 内乱が本格化する中、カタンガ州の有益性に目を付けたパトリス・ルムンバ首相 (1925〜1961) とカサヴブ大統領は、それぞれ独自に反乱を鎮圧しようとして軍を動かし、互いに相手の罷免を声明するなど、中央政府内の対立も激化、モブツ軍司令官 (1930〜1997) がクーデターで一時実権を握る(1960年9月)事態となった。
 この間、東側諸国はルムンバ派を支持し、一方、欧米諸国は、ユニオン・ミニエール会社に出資するなどしてカタンガ州の豊かな鉱物資源に利権を持つため、曖昧な態度に終始し、紛争を長引かせた。

1960年12月
 ルムンバ派は根拠地スタンリービル(キサンガニ)で中央政府の樹立を宣言し、カサヴブのレオポルドビル(キンシャサ)政権と対峙するなど、政情は混迷を極める。

1961年2月
 根拠地スタンリービル(キサンガニ)へ脱出を図ったルムンバはカザヴブ派に捕らえられ、虐殺される

 この間、同胞の保護を理由にベルギーが派兵し、カタンガ州の反乱を鎮圧、またルムンバ派部隊をも反乱軍と見なして駆逐。
 これに対し国連がその撤退を要求するなど、動乱は国際紛争の色彩をも帯びた。

同 年8月
 アドウラ首相の挙国一致内閣が発足し、二つの中央政府の対立状況は解消、南カサイの分離も撤回された。
 しかしカタンガは分離状態を維持し、雇兵部隊(カタンガ憲兵隊)を強化して軍事的に対抗する姿勢を示したため、

1962年12月
 国連軍がカタンガに進撃。

1963年1月
 カタンガはこれに屈し、分離独立を撤回してコンゴに復帰。「コンゴ動乱」は一応終結。

1964年6月
 国連軍が撤退。
 その後ルムンバ派のムレレ、グベニエ、スミアロらの指導する反政府勢力が武装闘争を展開、一時は国土の半分を制圧する勢いを見せる。

1965年3月まで
 米国、ベルギーの支援を受けた中央政府が鎮圧。

1965
 コンゴ共和国(キンシャサ)の軍司令官モブツがクーデターで政権を握り、大統領に就任。
 ようやく政情が落ち着く。
 以後30年以上独裁体制を維持する。

1966年末
 モブツ大統領は、シャバ州・カサイ州の地下資源に権益を持つユニオン・ミニエール社を国有化。

1967
 モブツは国名を「コンゴ共和国」から「コンゴ民主共和国」へ改称。

1960〜70年代
 コンゴのポピュラー音楽 (コンゴ [ザイール] ・ポップス) が大いに栄える。
 コンゴ・ポップスはコンゴ国内のみならず、アフリカ中に広まった。他国のミュージシャンもみなコンゴ・ポップスを模倣した。

1970
 大統領選挙でモブツ選出。

1971
 モブツ大統領は外来語を廃して国名を「コンゴ民主共和国」から「ザイール民主共和国」と改称するなど、「ザイール化」政策及びリンガラ語の普及を進めた。
 なお「ザイール」とは「全てを飲み込む混沌とした河」というほどの意味であり、これはモブツ大統領の生地であるコンゴ川中流エクアテール州の、世界でも最も深いジャングルと湿地に由来する。これは草原地帯の「バ・コンゴ州」とは全く異なる自然環境であり、いわゆる「コンゴ」とは異なる文化・伝統を追求しようという政策だった。
 一方、「革命人民運動 (MPR)」による一党独裁体制を敷き、国内の不穏分子を摘発して独裁体制を強化。

1977
 モブツ大統領再選。

1984
 モブツ大統領三選。

1990年代
 モブツ大統領は民主化の方針を打ち出すが、政権の腐敗、民族間対立という難問を解決できず、内政は混乱(大統領の不正蓄財は総額およそ50億ドルと言われる)。
 経済は破綻、治安は急速に悪化し、都心でも暴動が頻発。

1991年8月
 国民会議開催

1991年9月
 キンシャサ市内暴動発生

1992年8月
 国民会議はチセケディ首相を選出。

1993年3月
 ところがモブツ大統領はビランドゥワ首相を任命、以降二つの内閣が並立する異常事態となった。

1994年7月
 コンゴ暫定政府成立。

1994  ルワンダ内戦でツチ族大虐殺
 多数派のバントゥー系フツ族政権下で、少数派のナイロート系ツチ族が虐殺された。穏健派フツ族も殺され、犠牲者は80万人に達した。
 殺害を行ったのは、コンゴ東部の森林・山岳地帯に古くから存在する多くの軍事勢力、中でもフツ族「インタラムウェ」や、ルワンダ軍兵士の「ex-FAR」、コンゴの古くからの「マイマイ」兵などが中心。
 ツチ族国家ウガンダはツチ族保護を口実に介入、報復を恐れたフツ族200万人以上が西側のザイールや南のタンザニア領内に流れ込んだ。
 だが、ザイール領内の難民キャンプはツチ系バニャムレンゲ族の原住地だった。彼らはモブツ政権から市民権すら与えられず、迫害されていた。
 彼らとフツ難民との間に紛争が発生すると、ザイール政府軍はフツ族側に立って戦闘に参加。
 こうしてザイール領内に紛争が広がる中で、ウガンダの支援を受けたツチ系バニャムレンゲ族が優勢になる。

1996年8月
 モブツ大統領入院の報道を受けて、ザイール領内のツチ族最大勢力バニャムレンゲ族が一斉蜂起。

同 年10月
 ローラン・カビラ人民革命党議長は在野の3勢力を結集して反政府組織「コンゴ・ザイール解放民主勢力連合(ADFL)」を結成、反乱を開始。
 この時連携した反政府組織は次の通り。
  • 人民革命党……左派民族主義組織。主にルバ族から成る。
  • 人民民主連合……ザイール東部のツチ族組織
  • ザイール解放革命運動……南キブを拠点とするバシ族の組織
  • 民主主義抵抗国民評議会……東カサイ州クバ族中心
 これらの連合勢力であるADFLは、ツチ族の軍事力を背景に西に向かって進撃を続ける。
 ADFLは、ツチ族国家ルワンダや、ツチ族大統領を擁するウガンダの支援を受けたが、カビラ自身はツチ族ではない。

1997年4月
 ザイール領内でルワンダ難民(フツ族)大量行方不明事件が発生。
 国連側は、ADFL軍が少なくとも8万人のフツ族ルワンダ人を虐殺し、40カ所以上の穴に埋めたとみている。
 さらに「国境なき医師団」は、ADFL軍が領内のフツ系ルワンダ人の皆殺し作戦を進めていて、推定で19万人のフツ難民が行方不明になっているとしている。

1997年5月18日
 ADFLはザイールの首都キンシャサを制圧。
 国名は再び「コンゴ民主共和国」に戻され、ADFL議長カビラが大統領に就任した(5/29)。
 モブツは亡命し、モロッコで死去(9/7)。

 しかしカビラ新政権が異民族ツチによる干渉を嫌ったので、ツチ諸国とコンゴ民主共和国(旧ザイール)新政権との間に亀裂が広がる。

1998年8月3日
 東部キヴ州ゴマに本部をおく「コンゴ民主主義運動 (CDC)」が武装蜂起して内戦が勃発(この反政府組織は続く1年ほどの間にCFDC、次いでRCDと2回名称を変える)。
 CDCは一部ツチ族及び旧ザイール軍関係者からなる反政府勢力で、ウガンダ、ルワンダ、ブルンジの3国が軍事支援。

 かつてカビラ政権成立に手を貸したルワンダやウガンダ(ツチ族系)が、今度はカビラ政権を倒そうとするのは、カビラがコンゴ(旧ザイール)領内フツ族がルワンダとウガンダに戻らないようにする皆殺し作戦を実行しないからだと言われる。

1998年8月23日
 アンゴラ、ジンバブウェがカビラ政権支援のためにコンゴ民主共和国領内へ派兵、一挙に国際紛争へ発展。

1998年9月
 首都キンシャサでの暮らしは、電力に加えてガソリンのパイプラインもカットされ、保存食を中心に物価が2〜3倍に上昇。水道が使えないために、溜め水による伝染病の危機が広がる。経済活動の停止から銀行に現金が戻らず、一般市民は物々交換と自給自足でその日暮らし状態になる。
 停電の続くキンシャサでは、ラジオなどの情報源すらなく、風評が飛び交い、市民は密告を畏れて集団行動をとっている。戦災孤児が多数発生して流浪し、夥しい死体から掠奪して生活の糧を得ている。政府軍は若者を中心に路上生活者を徴兵し、彼等も生活のために応じている。

1999年8月末
 コンゴおよびルワンダ、ウガンダ、アンゴラ、ジンバブエ、ナミビアの計6カ国とコンゴの反政府勢力が停戦合意にこぎつけ、
  • 外国軍隊は撤退
  • 関係国が合同軍事委員会を設立し平和維持・停戦監視を行う
ことを決定(ルサカ合意)。
 しかし間もなく北部地域で戦闘が再発した上、紛争当事者が武器の調達などを始める。

 2000年2月現在、コンゴ民主共和国はカビラ政権が支配する西・南部と、反政府勢力が占領する東・北部とに分断され、しかも反政府勢力は三つに分かれている。
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更新日:2000/03/05

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