フィレンツェ
Firenze [伊] / Florence [英]
〔別ウィンドウ表示〕
 イタリア中部、トスカーナ州の州都。
 15世紀ルネサンス文化の中心となった。


前1世紀
 古代ローマの植民都市として成立。

 その後、ランゴバルド公国、フランク王国の伯や侯の座所となる。

11世紀後半
 トスカナ辺境女伯マティルダ (根拠地: カノッサ) の支配下に、事実上のコムーネ (自治都市) を形成。

1115
 トスカナ辺境女伯マティルダ死去により、名実共に独立。

12世紀
 毛織物の生産で有名に。
 イスラム世界との取引を通じてすぐれた毛織物生産の技術を学び、羊毛工業が始まった。

12世紀末
 グェルフ派 (教皇派) としての色彩が強まる。
 ドイツで12世紀に起こったシュタウフェン家とヴェルフェン家の間での王位争いは、後者がローマ教皇と結んだことから、イタリアでもドイツ皇帝派=「ギベリン派」と、教皇派=「グェルフ派」の対立を呼んだ。
 皇帝の権威に頼る直参大貴族らに反発する新興富裕市民は概してグェルフ派に与した。
 フィレンツェでも市政を巡って両派が争い、グェルフ派が多数派を取った。

13世紀
 毛織物工業が大躍進。
 外国生地・外国羊毛を扱った「カリマーラ商人」は、スペインやフランドルから羊毛や毛織物を輸入し、それを織ったり染めたりして、シャンパーニュ大市などを経由して再輸出した。 → その巨大な収入は諸国の経済を左右するほどになった。

13世紀後半
 新興商工業者たちは、キベリン派の封建貴族 (グランディ) 勢力を打倒し、共和政を実現した。
 また、ピサ、シエナなどを征服し、トスカーナ地方の覇者となり、グェルフ派 (教皇派) の中心都市としての地位を確立。
 さらに、画家チマブーエ (1240頃〜1302頃) が開いた「フィレンツェ派」を、弟子ジョットー (1266頃〜1337頃) が発展させ、「14世紀 (トレチェント) ルネサンス」の牽引役となる。

= フィレンツェの興隆 =

 13〜14世紀にフィレンツェがいかに大発展を遂げたかは、人口の推移を見ても分かる。

  • 13世紀前半 8000人
  • 14世紀初頭 10万人

1279
 サンタ・マリア・デル・フィオーレ寺院成立。

1282
 民主政確立。ギルドのみが市政を指導。

1289
 農奴解放。
 政権は大市民に独占されるが、小市民も順調に発展。

1293
 フィレンツェ共和国憲法「正義の法令」発布。

1296
 サンタ・マリア・デル・フィオーレ寺院の大聖堂が完成。

14世紀
 毛織物工業に加え、国際金融業も発展。
 人口は10万に達し、トスカナ有数の都市となる。

1340年代
 大銀行の倒産が相次ぐ。

= 『フィレンツェ年代記』 =

 フィレンツェの商人ジョヴァンニ・ヴィラーニ (1275頃〜1348) が残した『年代記 (クロニカ) 』は、その客観的な社会経済分析により、この時代最高の史料と言われる。
 そこでは町の概況を示す時も、「神の聖なる祝福により繁栄を与えられ」とか「天まで届く尖塔」「世界の隅々から人々が集まり」などというお定まりの表現は使わなかった。
 その代わり、町の人口をパンの消費量から9万人と推定。洗礼堂で毎年受洗する子供は5,800〜60,000人(男が300〜500人多い)、病院のベッド数は1,000以上、毛織物については織元の店2,000、総年産量7〜8万反、価格は12万グルデン、毛織物商工業の従事者3万人・・・このように、飾り文句を連ねず、数字自身に事実を語らせるスタイルを取ったのである。
 このような理知的な目は中世人のものではなく、すでに近代的な物の見方が広まりつつあったことを示している。

 残念なことにヴィラーニは執筆中の1348年に大流行のペストにかかり、「この疫病は・・・」と書き始めたところで絶筆となった。

1346〜1350 ペスト流行
 大市民による支配が動揺。

1353
 フィレンツェ商人の息子ボッカッチョ (1313〜1375) が『デカメロン』執筆。

14世紀後半
 「14世紀 (トレチェント) ルネサンス」が音楽の分野にも広がる。
  • ゲラルデッロ・ダ・フィレンツェ (?〜1362/67) ……3声カッチャ「天気の良い日の夜明けから (Tosto che ll'alba del bel giorno)」
  • ロレンツォ・ダ・フィレンツェ (?〜1372/73) ……2声マドリガーレ「さあ、おあげなさい (Dà dà a chi)」
  • フランチェスコ・ランディーニ (1325頃〜1397) ……3声バラータ「涙まなこに溢れ (Gram piant'agli ochi)」、3声バラータ「愛の女神よ、この乙女を (Questa fanciulla, Amor)」、2声バラータ「春は来たりぬ (Ecco la primavera)」、3声マドリガーレ「ああ、言っておくれ (Dè, demmi tu)」

14世紀
 建築家タデオ・ガッディ設計の3径間の石造アーチ橋ポンテ・ヴェッキオ (ヴェッキオ橋) がアルノ川にかけられる。
 後にピッティ美術館とウフィツィ美術館を結ぶ廊下がこの橋上を通るようになり、橋上に貴金属商が並び今日に至る。

14世紀後半 大市民と小市民の対立激化
 市民の間に対立が生じる。

  • 大市民 (ポポロ・グラッソ)……カリマーラ商人、羊毛商人、手工業者、医者、法律家など。
  • 小市民 (ポポロ・ミヌート)……下層市民

 両者の対立が激化。

1378〜1382  チオンピの一揆
 組合加入を許されない下層民の梳毛工 (チオンピ) たちが、大市民間の政争に乗じ、ランドの指揮の下に武装蜂起。シニョリア (市庁舎) を占領して大市民支配を一時くつがえした。
 しかし大市民の反撃に会い、ランドは1382年に追われ、大市民アルビッツィが政権を握った。

15世紀
 絹織物工業で栄え、近隣を制してイタリアの雄邦に。

1406
 ピサをはじめ、トスカーナ地方のいくつかの都市を支配下に入れる。

1409
 ピサ征服。
 しかしミラノとの戦いは不成功で、アルビッツィ家は権力を金融一族メディチ家に譲る。

15世紀前半
 画家マザッチョ (1401〜1428頃) が14世紀後半にシエナの装飾用式の影響を受けて衰えていたフィレンツェ派の写実主義を復活させ、造形的なドナテッロと共にメディチ家の保護を受けて、「15世紀 (クァトロチェント) ルネサンス」の中心の一つとなる。

1427
 久しく敵対してきたミラノをも屈服させた。

1429
 老コシモ (イル・ヴェッキオ) (1389〜1464) がメディチ家の当主となり、庶民の歓心を買って旧財閥に対抗、メディチ家隆盛の基礎を固める。

1433
 老コシモ、政敵アルビッツィ一族に追放されるが、間もなく復帰。
 1434年以降、権力は揺るぎないものに。

1442
 フランチェスコ派修道会の教会堂、サンタ・クローチェ教会が完成。
 イタリアの代表的ゴシック建築の一つで、ジョットの壁画があり、ダンテ、ミケランジェロ、マキアベリ、ロッシーニ、ギベルティらの墓がある。

15世紀半ば
 メディチ家の支配確立。
 新興財閥メディチ家は、大市民に対する小市民の不満などを利用、アルビッツィ家など旧財閥貴族に対抗し、財力で市政を牛耳り、政権の座に登る。
 15世紀中頃には、共和制の形骸を残しながらも、実質的にはメディチ家の専制支配が始まった。

1454 ローディの和約
 イタリアの大国間に和平が成立。
 フィレンツェも和約に参加、イタリアの大国の一員として認められる。

1458
 民主的政治機構「百人評議会」設置。但し実質はメディチ家が支配。

1464
 老コシモ死亡。
 子のピエロ・デ・メディチ (イル・ゴットーゾ) が跡を継ぐ。

1469
 ピエロ・デ・メディチ死去。  その子 (老コシモの孫) 大ロレンツォ (イル・マニーフィコ) (1449〜1492) がメディチ家の統領を継ぐ。
 メディチ家の全盛期を現出。
 初歩ギリシア語を学び、古典文学の素養があり、ソネットを詠み、哲学者マルシリオ・フィチーノと議論した大ロレンツォは、典型的なルネサンス君主であった。

1478 パッツィ家陰謀事件
 4月28日朝、フランチェスコ・パッツィ率いる暴徒は、フィレンツェ大聖堂のミサに列席していたメディチ家の息子たちを襲撃。
 弟ジュリアーノ・デ・メデイチは殺されたが、兄・大ロレンツォ (イル・マニーフィコ) はこれを辛くも逃れ、パッツィ家やその共犯者たちを徹底的に討滅。
 この過程を通じて、評議員の数を減らし (100人→70人 (1480) →15人 (1490) )、議会の大半をメディチ家で占めるようにし、フィレンツェに独裁権を樹立。
 これ以降、フィレンツェの政治・文化の最盛期。

15世紀後半 ルネサンス教皇
 イタリアの経済繁栄とルネサンス文化の華やかさにカトリック教会も巻き込まれ、フッガー家、メディチ家への経済依存やネポティズム (縁故主義) の蔓延が教会の腐敗に拍車をかけた。

1482〜1484
 ヴェネツィアと戦争。

1492
 4月8日、市民に慕われていた大ロレンツォ、わずか43歳で死去。
 子のピエロ・デ・メディチ (1471〜1503) がメディチ家当主を継ぐが、フィレンツェの没落を止めることは出来なかった。

1494
 フランス軍の侵入 (イタリア戦争の開始)。
 フランスのシャルル8世の軍に戦いもしないで屈服したメディチ家当主ピエロを、市民が追放。
 シャルル8世の襲来を予言した怪僧サヴォナローラの影響力が増す。

1494〜1498
 ドミニコ会修道僧サヴォナローラが指導者となり祭政一致の厳格な宗教政治を敢行。
 フィレンツェ市を「神の都」と宣言、「虚栄の焼却」(焚書坑儒) などで聖俗両界の刷新を図った。
 「神は簡素で禁欲を旨とした生活を欲し給う」と宣言、あらゆる贅沢品や芸術作品を広場に集めて焼いた。
 『春 (プリマヴェーラ)』や『ヴィーナスの誕生』などの柔和な自然美・官能美の名画で知られる画家ボッティチェッリ (1440頃〜1510) もサヴォナローラに熱狂した一人で、「虚栄の火刑」に積極的に参加しては、何か口の中でぶつぶつ呟きながら自分の作品を火の中に投げ込んだ。その後の彼の作品は重苦しい宗教画ばかりとなった。

 だが間もなく抑圧された市民の反発や、ローマ教皇アレクサンデル6世の異端認定により、1498年フィレンツェ市政府はサヴォナローラを逮捕し、拷問によって予言はインチキであったとの自白を得た上で、5月に火刑に処す。

1500
 レオナルド・ダ・ヴィンチとミケランジェロが帰還。
 またマキャヴェッリが1498〜1512年の間フィレンツェの外交官として活躍、『君主論』を著して、チェーザレ・ボルジアのような独裁君主に、混乱したイタリア政治の救済を夢見た。

1501〜1504
 ミケランジェロが大理石像『青年ダヴィデ裸像』を製作。
 これは巨人ゴリアテを倒した少年ではなく、イスラエル諸部族を統一した青年としてのダヴィデであり、イタリアの統一と平和の希望をフィレンツェに託したものとされる。
 なおミケランジェロはレオナルド・ダ・ヴィンチと同じく同性愛者で、レオナルド以上に同性にしか興味がなかったと言われる。

1511
 教皇ユリウス2世は再びスペインと結び、ミラノのフランス軍を撃退し、フィレンツェを孤立させてから攻略。
 マキャヴェッリのフィレンツェ防衛軍はフランス軍の応援も得られず、民兵も効果を上げず、翌年あっけなく陥落。

1512
 ハプスブルク家のスペイン王カルロス1世の援助で、大ロレンツォの次男(ピエロの弟)ジョヴァンニ・デ・メディチが実権を掌握し、メディチ家の支配復活。
 この結果、その後のフィレンツェはスペインや教皇の影響から逃れられなくなる。

1513
 ジョヴァンニ・デ・メディチが教皇レオ10世となったので、フィレンツェの支配はピエロの息子(大ロレンツォの孫)ロレンツォ2世に委ねられる。

1519
 ロレンツォ2世死去。
 教皇レオ10世の従弟に当たる枢機卿ジュリオ・デ・メディチが代わってフィレンツェを統治。

1523
 ジュリオ・デ・メディチは教皇クレメンス7世となる。
 フィレンツェ統治はロレンツォの息子(大ロレンツォの曾孫)アレッサンドロと、その従兄弟イッポリトの手に移る。

1527
 反メディチ派が蜂起。メディチ家のアレッサンドロとイッポリトは市民に追放される。

1530
 教皇クレメンス7世の干渉で、メディチ家が復帰。
 フィレンツェ共和政の没落。

1531
 アレッサンドロ・デ・メディチが復帰し、「統領」としてフィレンツェの支配を開始。

1532  トスカーナ公国の成立
 教皇クレメンス7世とドイツ皇帝カール5世との協定で、アレッサンドロは初代「フィレンツェ公」の位を得る。

1535
 初代フィレンツェ公アレッサンドロは、皇帝カール5世の娘マルガレーテ (マルガリータ) を妃に迎える。

 アレッサンドロの宮廷には、ミケランジェロのような美術家や、アルカデルト (1505頃〜1568) のような音楽家が出入りした。

1537年1月
 フィレンツェ公アレッサンドロは、同じ宮廷にいたメディチ家傍系のロレンツィーノ・デ・メディチに暗殺される。
 ロレンツィーノは逃亡、アルカデルトも危険を感じてフィレンツェを離れた。

 その後、メディチ家の分家 (老コシモの弟の系統) コシモ1世 (1519〜1574) が公位を継ぐ。

1560〜1584
 ヴァザーリがメディチ家の公館を建設。
 後にメディチ家のコレクションを中心とした「ウフィツィ美術館」となり、ボッティチェリなどルネサンス諸大家や、オランダ,フランドルの名品で知られる。

1569  トスカナ大公国の成立
 フィレンツェ公コシモ1世は「トスカナ大公」の称号を受け、専制君主としてトスカナ大公国の支配を始める。

1737
 最後の第7代トスカナ大公ジャン=ガストーネ (1671〜1737) 死去。
 メディチ家は断絶、同家によるフィレンツェ及びトスカナ地方の支配に幕。

1865〜1871
 イタリア王国の首都。

1966
 アルノ川の氾濫により被害。

前ページに戻るよ 歴史用語インデックスへ

©2002-2003 早崎隆志 All rights reserved.
更新日:2002/04/07; 2003/01/19

ご意見・ご希望きかせてね eden@tcat.ne.jp