ハザール人
Khazar 2世紀末〜11世紀
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 6〜9世紀を中心に、黒海とカスピ海の南ロシア〜カフカスに勢力を築いたトルコ系民族。

 元来は遊牧民だが、古くから農耕を営む。
 古くからローマやペルシアと関係を持ち、のちアラビアとも通商して富強になり、ハザール帝国を建設(7〜11世紀)。
 また、ユダヤ教に改宗したことでも知られる。

 2世紀末からローマ史料に登場するが、当初は非トルコ系で、突厥の西方進出以降トルコ化したと思われる。

 

198
 アルメニアに侵入、ローマ軍に撃退される。

363
 サーサーン朝ペルシアが東部アルメニアを併合した時、ローマ帝国と結んでペルシア遠征を助けた。

448
 東ローマ皇帝テオドシウスの勧めでフン族を討とうとしたが、事前に知ったフンのアッティラ大王に攻撃されてこれに服属し、アッティラの長男の属領となる。

487
 サーサーン朝ペルシアの討伐を受ける。

6世紀
 アヴァール人の東ヨーロッパ侵入が始まると、それに乗じて、カフカスにおけるサーサーン朝の防備を破り、クル (Kur) 、アラス (Aras) までを支配下に入れ、グルジア、アルメニア方面へ広がる。

c.507
 サーサーン朝ペルシアに撃退される。

6世紀末
 中国北方のトルコ系騎馬民族・突厥 (とっけつ、テュルク) が中央アジアを越えて西方まで勢力を伸ばし、南ロシアの草原地帯に一時混乱を引き起こす。
 この頃、西突厥がハザール人を支配下に入れ、部族を再編成した可能性あり。

7世紀初め
 再び歴史に登場した時、ハザールはカフカスから黒海北岸にかけて強大な帝国 (ハザール・ハン国) を築いており、君主は「ハカン (Khakan) 」と呼ばれていた。
 習俗や、支配者の称号「ハカン (可汗)」、役職名「タルハーン (達官?)」などから、この時、ハザールが西突厥などアルタイ系騎馬民族と密接な関係を持っていたことが推察される。

627
 ビザンツ(東ローマ)帝国と同盟。
 ビザンツ皇帝ヘラクレイオス (位610〜641) のサーサーン朝ペルシア軍遠征に、援軍4万人を出して協力し、ペルシアの首都クテシフォンに迫る。
 なおこの時がハザールのビザンツ史料初登場。

7世紀中頃
 西突厥が衰えるとさらに盛んになり、ブルガール人を勢力下に入れて南ロシア草原の支配権を握り、ドニエプル、オカ川流域のスラヴ系農耕民を従えた。

641/642
 カフカス地方の領有をめぐって新興のアラブと対立が始まる。

7世紀末
 クリミア半島を併合、アゾフ海にも勢力を確立。
 ビザンツ帝国と結び、アルメニアに侵入。
 グルジアの首都ティフリスへ遠征し、またアゼルバイジャンのアルデビールまで侵攻。

702
 ビザンツ皇帝ユスティニアヌス2世がハザールに亡命、そのハカンの娘をめとる。
 その子はのちレオン4世としてビザンツ皇帝位に就くに至る。

8世紀初頭
 イスラム勢力(ウマイヤ朝)がアルメニアに侵入してくると、ビザンツと共に戦ったが敗れ、カスピ海東岸から全面的に撤退。ハザールの首都ベレンジェルも戦火に包まれる。

737
 後のウマイヤ朝カリフ、マルワーン2世に率いられたアラブ軍がハザール・ハン国の奥深くに侵攻。
 ハザールのハカン(国王)と族長たちは、一時的にイスラム教に改宗。
 また、ウマイヤ朝カリフの宗主権を認め、他のカフカス諸地域と共にウマイヤ朝イスラム帝国に貢納を義務づけられる(〜861)。

 だが間もなくカリフの宗主権下を脱し、再びアラブと争う。

= 苦肉の選択だったユダヤ教への改宗 =

 ユダヤ人以外の民族でユダヤ教に改宗した民族は、南アラビアの第2次ヒムヤル王国を除けば、ハザール人しかいない。
 一体なぜハザール人は、ユダヤ教などという特殊な宗教を選択したのだろうか?

 当時、2つの超大国、キリスト教を国教とするビザンツ帝国と、アラブ人のイスラム帝国は鋭く対立していた。ちょうど両者の中間に位置するハザールの立場は微妙だった。
 キリスト教に改宗するとイスラム帝国を敵に回すし、イスラム教に改宗するとビザンツ帝国と対立する。
 貿易立国としてはどちらも避けたい選択だった。
 そこで、キリスト教でもなく、イスラム教でもない、第三の宗教としてハザールが選んだのが、ユダヤ教だったのである。

 確かにユダヤ教徒なら、イスラムでは「啓典の民」として認められ、キリスト教徒も容認する。
 また、ユダヤ人に対しては、自分たちハザールは、古代ユダヤ(イスラエル)十二支族の一つ、シメオン部族の出身である、と説明した。

c.740
 ハザールの支配層はユダヤ教に改宗。
 但し他の宗教に対しても寛大な態度を示し、領内にはキリスト教、イスラム教も行われ、東西交流の要衝を占めた。
 ムスリム商人で移住してきた者も多く、ハザール人の中にはイスラムに改宗する者も増加した。

8世紀後半〜9世紀前半
 やがてアラブとの戦いも止み、ハザール・ハン国は経済的には黄金時代に入る。
 同国はアルタイ系遊牧国家の伝統を継承。
 宗教的権威をもつ国王ハカンのほかに、実際の政務を行う「シャド」「ベグ」らが存在。
 彼ら支配層は冬をイティルなど都市の周辺で過ごし、夏を草原地帯で過ごすという半遊牧の生活を送った。
 国内では農業のほかに漁業も行われた。隊商にかけられる関税も国家の重要な財源。

 ヴォルガ川下流の新首都イティル (Itil) (アティル)は国際貿易の中心地として栄え、ビザンツ、アルメニア、バグダードの商人たちが集まり、蝋、毛皮、皮革、蜜などの取引に従事。ハザール・ハン国は彼らに課税することで莫大な利益を得た。
 自らも牛、羊、奴隷を輸出 (10世紀のペルシア語地理書『世界の諸地域』より)
 また、ヴォルガ川−カスピ海経由のヨーロッパ=イラン貿易路を開拓、沿岸都市の発展を招くなど、東西交通史上重要な役割を果たした。アラブ人はカスピ海を「ハザル海」と呼んだ。

9世紀後半
 トルコ系オグズ人が侵入。
 ハザールは衰え始める。

= ハザール人は「東欧ユダヤ人」の祖先か? =

 ハザール・ハン国滅亡後も、残存ハザール人たちはユダヤ教を信じていたと言われる。
 そこで、彼らが西へ流れ着き、いわゆる「東欧ユダヤ人」の祖になった、とか、ナチスが東欧のユダヤ人が虐殺した時、西欧のユダヤ人が救出に動かなかったのは、イスラエル起源以外のユダヤ人の絶滅を望んでいたからだ、などという俗説を生んでいるが、実際はどうなのか?

 中世以降、ロシア、ポーランドなどの東欧にかなりのユダヤ教徒が住んでいた。彼らはイディッシュ語を喋り、伝統的な信仰と風俗習慣に固執しする独特のユダヤ民族集団「アシュケナジム」を形成していた。
 その一部が、ハザール・ハン国滅亡後に離散したユダヤ教徒である可能性はある。だが、ハザール・ハン国でユダヤ教徒だったのは支配層に限られており、むしろ王国内には多くのイスラム教徒やキリスト教徒が居住していた。ハザールの民で本当にユダヤ教徒だったのは少数派なのだ。
 それに、ハザールという民族が、信仰だけでなく、固有の言語や習慣まで捨てきって、ユダヤ化するものだろうか。
 しかも、東欧ユダヤ人「アシュケナジム」の言語イディッシュ語は、系統的にはゲルマン語派に属する。ハザールの末裔ならトルコ語派に属すはずだ。

 現在、アシュケナジムの歴史は次のように考えられている。
 9世紀ころ、ユダヤ人集団が北イタリアや北フランスからドイツ(主にライン流域)に移住。ここで中高ドイツ語諸方言に接触し、イディッシュ語の基礎を形成。語彙には独語、ヘブライ語、アラム語の他、かつて接触した仏伊語の要素も見られる。
 13世紀以後、キリスト教徒の迫害を受け、さらに東欧に移る。
 14世紀以後、スラヴ人地域に居住。イディッシュ語もポーランド語、ウクライナ語、ベラルーシ語の強い影響を受け、例えばヘブライ語の語幹にスラヴ語の接尾辞を付けることも行われるようになる。
 1492年にスペインが自国内のユダヤ人(セファルディム)を追放し、その一部が東欧にも来たが、東欧のアシュケナジムと同化することはなかった。
 17世紀以後、東欧での「ポグロム(ユダヤ人虐殺・迫害)」が始まり、特に19世紀後半に帝政ロシアで起こった迫害を逃れるため、大量のアシュケナジムが西欧やアメリカへと移住した。
 この際、西ヨーロッパ社会に同化しつつあったユダヤ教徒セファルディムと利害が対立し、彼らからも蔑視・差別された。

 こう見てくると、仮に10世紀のハザール・ハン国滅亡時に東欧に逃げ込んだユダヤ教徒のハザール人がいたとしても、とてもアシュケナジムの中核になったとは思えないが……

9世紀末
 ハザール人の一部は東部ヨーロッパに侵入。

10世紀
 ビザンツと密かに同盟した騎馬民族ペネチェグ人がハザールを攻撃。
 ビザンツは、ハザールが独占していたクリミア交易の利権を狙っていた。

 ペネチェグ族、マジャール人の圧力で弱ったところに、ノヴゴロド、キエフのルス(古代ロシア)系商人が勃興、ハザール商人に代わってコンスタンティノープルと北方地域との貿易の独占を狙い、ハザール・ハン国への攻撃を開始。

10世紀後半
 キエフ・ロシアの侵略。

965〜969
 キエフ公スヴャトスラフの攻撃。
 イティル、サルケル (Sarkel) 、セメンデル (Semender) などの諸都市を攻略。
 また、カフカスにも侵入してアゾフ海沿岸にロシア植民地を作る。

965  ドン河口の西部国境要塞サルケルを占領。

969  ヴォルガ河口の首都イティルが陥落。

988
 スヴャトスラフの孫ムスティスラフはハザール・ハン国に代わって1侯国を建てる。

1016
 ビザンツとロシアに挟撃されて、完全に滅亡。
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更新日:2000/04/23, 2003/11/14

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