ミラノ
Milano [伊] / Milan [英]
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 イタリア北部、ロンバルディア州の州都。
 ポー平原北西部に位置するイタリア第1の商業・金融・工業都市で、ローマに次ぐイタリア第2の大都市。
 14〜15世紀のルネサンス期には、ロンバルディアを領土とする「ミラノ公国」の首都として、その歴史はロンバルディアと一体化していた。

 ミラノ公国はもともとヴィスコンティ家が統治しており、14世紀にはジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ (位1385〜1402) の下で大いに勢力を伸ばした。
 しかし後継者に恵まれず、やがて1450年、傭兵隊長フランチェスコ・スフォルツァーが世論を巧みに導いてミラノ公に収まり、国を奪ってしまう。
 その子ガレアッツォ・マリア・スフォルツァー (位1466〜1476) は、芸術を保護し、ジョスカン・デ・プレを引き抜いたりもしたが、残虐趣味と色欲に溺れて人民を困窮の底へ追いやり、暗殺された。
 その子ジャン・ガレアッツォ・マリア (位1476〜1481) はまだ8歳で、実権は公妃のボーナが握った。彼女は経費節減の一策として聖歌隊を縮小し、ジョスカンもくびにした。
 しかし1481年、叔父のロドヴィコ・スフォルツァー・イル・モーロ (1446〜1510) が、ボーナと幼い甥ジャンから権力を簒奪した。
 彼はドイツ皇帝と結んで勢力拡大を企んだが、1494年のフランス軍のイタリア侵入の際にはシャルル8世に脅されて震え上がり、情けなくも仏軍のイタリア侵攻の案内役を買って出た。
 その後、よせばいいのに対仏同盟の企みに加わり、フランスの怒りを買い、1499年に仏王ルイ12世に攻め込まれ、スフォルツァー家はミラノから永遠に追放されたのだった。
 ちなみに、ロドヴィコに仕えていたレオナルド・ダ・ヴィンチ (1452〜1519) は、その後フィレンツェやローマ教皇領などを放浪した挙げ句、ミラノに舞い戻り、最後には1515年のマリニャーノの戦いに勝った仏王フランソワ1世に伴われて翌1516年フランスへ移り (この時有名な『モナ・リザ』の絵も持参した)、そこで生涯を終えるのである。


 ケルト人の都市として誕生。

前222
 ローマに征服され、ローマ帝国西半の中心地に。

4世紀
 ミラノ司教聖アンブロシウス活躍。
 テオドシウス帝のキリスト教国教化やローマ=カトリック教会の教義確立に大きな役割を果たす。
 彼を記念して4世紀にサンタンブロージョ教会が創建される。

568〜774
 北イタリアをランゴバルド王国が統治。
 ミラノの地位は低下。

11世紀頃
 すでに毛織物及び武器の商工業で繁栄。
 市民は自治政府を作ってドイツ皇帝と対抗。

1162
 ドイツ皇帝フリードリヒ1世、ミラノ市を破壊。

1167
 ロンバルディア都市同盟の援助で再興。
 その後いっそう勢いを伸ばす。

 この時代、経済力を付けたイタリアの都市国家の多くは共和政を実現するが、ドイツ皇帝の影響下にあり、領主の力が強いミラノは、異なる方向へ向かう。

12世紀中頃
  ミラノを中心としたギベリン派 (皇帝派) の名家の一つが、「副伯 (vis-conte) 」の称号を得て世襲化し、ヴィスコンティ家として台頭。

1277
 ミラノ大司教オットーネ・ヴィスコンティ (1207〜1295) が市長に就任。

1310〜1312
 ドイツ皇帝ハインリヒ7世が南下。
 この際ヴィスコンティ家のマッテオネ (1255〜1322) はうまく皇帝に取り入って、皇帝代理 (代官) の地位を得、ミラノの実質的な都市領主となる。

= 戦略の天才ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ =

 ルネサンス期のイタリアには政治の分野にも特異な天才が登場するが、ジャン・ガレアッツォもその一人。彼は並ぶ者なき策略家の僣主だった。
 皇帝から「ミラノ公」の肩書きを買い取り、パヴィアに壮麗な王宮を建て、人文主義者を集めて教養ある君主を気取る一方、財源として市民や農民を弾圧して税金をうんと搾り取った。
 政治の遂行にはスパイ、買収、弾圧、懐柔、戦争、ありとあらゆる手段を動員し、異常なまでの統治の才能を発揮した。
 ジャン・ガレアッツォの時代のミラノはヴェネツィア、フィレンツェと肩を並べる強国であり、彼によるイタリア統一も夢ではなかった。
 実際、最大の宿敵ヴェネツィアを倒すため、何と海潟を干し上げてしまう計画を立てたが、寸前に彼が病死したので実現されなかった。実行されていたら、さすがのヴェネツィアもどうなっていたか分からない。

1385〜1402  ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ (1351〜1402)

1385
 ドイツ皇帝から「ミラノ公」の称号を買収し、「ミラノ公国」を開く。
 急速に勢力を伸ばし、一時北・中イタリアの大部分を領有。
 壮麗なミラノ大聖堂を造営し、学芸を保護。

1386
 後期ゴシック様式の大聖堂ミラノ大聖堂<SMALL> (Duomo, Milano) の建立に着工 (完成は1813年)。
 長さ約150m,正面幅約60mに及ぶ白大理石製の5廊式建築で、サン・ピエトロ大聖堂に次ぐイタリア第2規模の大寺院。

1402
 ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティの死。
 領土は3子に分割相続。

 市民は一時民主政府を樹立。
 ヴェネツィアと争った時、傭兵隊長としてフランチェスコ・スフォルツァー (1401〜1466) を雇う。
 彼はジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティの孫娘と結婚。
= ルネサンス期イタリアの徒花:傭兵隊長 =

 ルネサンス時代のイタリアは華やかな文化に目を奪われがちだが、政治的には全く分裂しており、群小の都市国家群が箱庭のような狭い領土を巡って、絶え間なく争いを繰り返していた。

 そのため、兵士の調達から訓練、戦略、戦術、実際の戦闘から兵士の労働条件や賃金の交渉の代行まで一気に引き受ける、"戦争屋"のような商売が現れた。これが傭兵隊長という職業だ。原語コンドッティエーレは「契約者」という意味である。
 傭兵隊長は最初、戦闘のたびに兵士を集めては解散させていたが、効率の観点から、平時でも実戦に慣れた兵士を雇っておくことにした。しかし都市や諸侯は賃金を払ってくれないから、自腹である。部下の兵士たちは自己資金で食わせている「私兵」ということになる。
 そうなると、傭兵隊長は自分の財産である兵士たちを戦闘で失いたくはない。そこで戦闘に非常に慎重になり、いざ戦場に出ても睨み合うだけで敵軍傭兵の契約期間切れを待ったり、ひどい場合には敵傭兵と示し合わせて八百長戦争をしたりした。

 そうした打算と戦略に長けた傭兵隊長たちの中でも、最も野心に満ちたのがフランチェスコ・スフォルツァーだった。
 スフォルツァー家はロマーニャの農民出身のどこの馬の骨ともつかない家系だが、ジャコムッツォ [ムーツィオ] ・アッテンドロ・スフォルツァー (1369〜1424) は優れた才覚でナポリ公国で武勲を挙げ、イタリア最高の傭兵隊長にのし上がり、「スフォルツァ (威服者)」の称号を得た。
 その息子がフランチェスコで、ミラノ公国というイタリア有数の大国家をまんまと乗っ取ってしまったのである。

1447
 ヴィスコンティ家最後のミラノ公フィリッポ・マリアが死んで、男系が絶える。
 ミラノは一時共和国となる。

 しかし傭兵隊長フランチェスコ・スフォルツァー、妻が後継者であることを利用して国盗りを計画。

1450
 フランチェスコ・スフォルツァーがミラノ公の地位を簒奪。
 スフォルツァーは宣伝によって人気を煽り、人望が出るのを見計らって、周到な準備の末、凱旋将軍のようにミラノに現れた。熱狂した市民はスフォルツァーを馬に乗せたまま担ぎ上げ、ミラノ大聖堂へ運んでいって主君に推戴した。
(但しあくまで実質支配者であり、正式にミラノ公の地位を得てはいない。)

1450〜1466  フランチェスコ・スフォルツァー

1454
 ヴェネツィア共和国との間に「ローディの和約」を結び、ミラノ支配者としての地位を固める。

1466〜1476  ガレアッツォ・マリア・スフォルツァー (1442〜1476)
 フランチェスコの息子。
 文芸保護には熱心だった。
 1472年 建築家ブラマンテ (1444〜1514) を召し抱える。
 1474年 音楽家ジョスカン・デ・プレをミラノ公宮廷礼拝堂聖歌隊へ招き寄せる。
 しかし、残虐趣味と色欲に溺れて人民を困窮の底へ追いやったため、1476年に暗殺。

1476〜1481  ジャン・ガレアッツォ・マリア・スフォルツァー (1442〜1476)
 ガレアッツォ・マリアの息子。
 即位当時まだ7歳だったので母 (公妃) ボーナが実権を握る。
 彼女は経費節減を進め、聖歌隊縮小によりジョスカンも解雇された。

1481〜1499  ロドヴィコ・スフォルツァー・イル・モーロ (1452〜1508)
 「イル・モーロ (色黒)」と呼ばれたジャン・ガレアッツォ・マリアの叔父ロドヴィコ・スフォルツァーは、まずボーナから摂政の座を奪い、続いて幼い甥ジャン・ガレアッツォ・マリアをクーデターで追放して自らミラノ公の地位に就いた (1481)。
 父フランチェスコと同様の文化保護政策を取り、ミラノ文化の最盛期を現出。

1482
 レオナルド・ダ・ヴィンチを雇う。
 フィレンツェのメディチ家当主大ロレンツォはレオナルドの才能を見抜けず、ミラノのスフォルツァー家のロドヴィコ・イル・モーロの下に30歳の彼を遣わす。
 レオナルドは自分の技術的才能、特に軍事的才能をロドヴィコに売り込み、採用される。
 但し彼の仕事は、結婚式などの娯楽演出係にすぎなかった。
 滞在中にサン・フランチェスコ聖堂の祭壇画『岩窟の聖母(第1)』 (1483-85) など名画を製作。

1493
 ロドヴィコ・イル・モーロは、娘をドイツ皇帝マクシミリアン1世と結婚させる。
 この席でレオナルド・ダ・ヴィンチは、1485年にロドヴィコ公に依頼されながら実現が疑われていた巨大騎馬像の原型を公開し、人々の絶賛を得る。

1494
 ロドヴィコ・イル・モーロは、ドイツ皇帝マクシミリアン1世から正式に「ミラノ公」に任命され、フランスの侵略を防衛する約束をする。

1494
 フランス軍の侵入 (イタリア戦争の開始)。
 ロドヴィコ・イル・モーロは仏王シャルル8世に脅されて震え上がり、情けなくも仏軍のイタリア侵攻の案内役を買って出た。
 レオナルド・ダ・ヴィンチの巨大騎馬像計画もフランス軍の通過によって突然に中止され、準備していた大量のブロンズ (青銅) は大砲されてしまう。
 しかしレオナルドはミラノに留まり、以下のような名画を制作。

  • 1495〜1497  サンタ・マリア・デレ・グラーツィエ教会 (ブラマンテらが修築) の壁画『最後の晩餐』
  • 1495〜1506  『岩窟の聖母(第2)』


 間もなくミラノ公ロドヴィコは、独帝マクシミリアン1世=ローマ教皇アレクサンデル6世=スペイン=ヴェネツィアなどと反仏大同盟「神聖同盟 (レガ・サンティ)」を結成、フランス軍を撤退させる。

1499〜1500
 新しいフランス王ルイ12世 (位1498〜1515) が、教皇やヴェネツィアと結託して再びミラノに侵攻、これを占領。
 1499年、ミラノ公ロドヴィコ・イル・モーロは追放され、スフォルツァー家によるミラノ支配は崩壊。
 レオナルド・ダ・ヴィンチはヴェネツィア経由で故郷フィレンツェに逃亡。彼の巨大騎馬像の原型はフランス軍の射撃練習の的となった。
 一方ブラマンテはローマに亡命して教皇庁に仕え、長十字聖堂形式のゴシック建築に対し、幾何学的な正十字聖堂形式によるルネサンス様式を確立。

1506
 ミラノのフランス軍総督がレオナルド・ダ・ヴィンチを招く。
 レオナルドはミラノで『洗礼者ヨハネ』 (1508-15) などを製作。

1511
 教皇ユリウス2世はメディチ家復帰を拒むフィレンツェを孤立化させるため、スペイン=独帝マクシミリアン1世=イングランド王ヘンリー8世=ヴェネツィア=スイスなどと対仏「神聖同盟」を再結成し、ミラノのフランス軍を攻撃する。

1513
 フランス、ミラノ放棄を余儀なくされる。

1515  マリニャーノの戦い
 フランスの新王フランソワ1世 (位1515〜1547) は、教皇ユリウス2世の死に乗じて北イタリアに進出、スイス誓約同盟を破ってミラノを奪還。
 この時ミラノにいたレオナルド・ダ・ヴィンチ (1452〜1519) は、翌1516年、仏王フランソワ1世に伴われてフランスへ移り (この時有名な『モナ・リザ』の絵も持参した)、そこで生涯を終える。

1535
 スフォルツァー家の支配、完全に終わる。

16世紀半ば〜
 公国はスペイン王家、オーストリアの手に移る。

1778
 イタリア・オペラ界最高の殿堂スカラ座 (Teatro alla Scala) が開場。収容人数3600。
 ベッリーニの歌劇「ノルマ」、ヴェルディの歌劇「オテロ」「ファルスタッフ」、プッチーニの「蝶々夫人」などの数々の名作オペラがここで初演される。

1796
 ナポレオンの征服によりミラノ公国は消滅。
 その後オーストリアの支配下に。

1860
 イタリアに統合。

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更新日:2002/04/07

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