オスマン朝
Osman [トルコ] / Ottoman (Othman) [英]  1299〜1922
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 「オスマン帝国」「オスマン・トルコ」とも。
 また、「オスマン」は「オットマン」とも。

 13世紀末から20世紀初頭まで、小アジアを中心に北アフリカ〜西アジア〜バルカン〜黒海北部〜カフカス南部を支配したイスラム教トルコ人の大帝国。


〔時代〕 1299〜1922。全盛期は15〜16世紀。
〔領域〕 小アジア中心にアジア、ヨーロッパ、アフリカにまたがる。
〔首都〕 イスタンブール
〔特色〕 民族で差別せずイスラム教徒であることを重視
〔名君〕 スレイマン1世 (大帝)
〔経済〕 
〔文化〕 
〔宗教〕 スンナ派イスラム教

オスマン朝史 (超簡単まとめ)

(1) 1299〜1453  発展期
 14世紀にバルカンを領有。
 1402年、バヤジト1世はアンカラの戦でティムール軍に敗れ、滅亡の危機に陥ったが倍旧の勢いで復興。
 1453年にメフメト2世はコンスタンティノープルを占領して遷都、首都イスタンブールを築く。

(2) 1453〜1600  最盛期
 セリム1世は1514〜1517年にイラン、エジプトを征服して3大陸のイスラム世界に君臨。スルタン=カリフ制実施。
 スレイマン1世は中欧にまで兵を進め、地中海を制圧、専制国家体制を完成して全盛期を迎える。
 その後、平和な時期が続く。

(3) 1600〜1922  衰退期
 17世紀には停滞。
 18世紀には急速に衰退。18世紀中頃にはロシア、オーストリアの圧迫でバルカン半島を放棄。
 19世紀前半には建て直しのための近代化改革(タンジマート)が試みられるが、ロシアや西欧の進出を食い止めることは出来ず、黒海沿岸からも後退、西欧列強の干渉を受け東方問題を招く。
 アブデュル・ハミト2世の反動支配は青年トルコ党による1908年サロニカ革命で倒されるが、外患に煩わされ、第1次大戦はドイツ側に立って参戦し、国家分裂の危機に陥る。
 この危機を救ったケマル・パシャにより1922年にスルタン制が廃止され、オスマン朝は終わる。


=Contents=

  • 草創期
  • 興隆期
  • 最盛期
  • 停滞期
  • 衰退期
  • 革命期


    = 草創期 =

       オスマン部族は、オグズ群トルコ人の一分派カイウ族から派生したと言われる。カイウ族に周辺部族が混淆し、モンゴルに押されて小アジアに入ったと思われる。
    13世紀前半
     トルコ人族長エルトゥルル・ベイ、一族と共に小アジアへ赴き、ルーム・セルジューク朝のスルタン、アラー・ウッディン・ケイ・クバト1世 (位1219−1236) に加勢し、手柄を立てて勢力を伸ばす。

    1288
     エルトゥルルの一子オスマン (Osman) ・ベイ、族長に。
     この時すでにイスラムに改宗済み。

    1299
      オスマン・ベイ、セルジューク朝の衰微に乗じてトルコ系小王国を統合、独立。
     オスマン(オスマンリー)の名称を冠する。

    1299〜1326  初代スルタン オスマン1世ベイ
     ビザンツ帝国の領土を蚕食し、勢力を伸ばす。
     但しこの頃はアナトリア(小アジア)に無数にいるガーズィー(戦士集団長)の一人に過ぎない。

    1326
      ブルサ攻略中に陣没。


    = 興隆期 =

     
    1326〜1359  第2代 オルハン・ベイ
     ブルサを占領後、二ケア(イズニク)、二コメディア(イズミット)等を相次いで奪取し、小アジアを完全に征服。
     また、法律も貨幣も国境もなかったため、他国に対抗するため、行政・法などの国家体制を整備し、正規軍を創設して軍団の組織化を図った。
     イブン・バトゥータは「トルコ系遊牧民の君主中、もっとも富強で、100に近い城を持ち、絶えずそれらをまわり歩いてる」と記している。

    1326
      父の意志を継いでブルサを占領、首都とする。

    1327
     アクチェ貨幣を鋳造。
     この貨幣は17世紀に至るまでオスマン帝国領内で広く使われた。

    1337
     小アジアの二コメディア(イズミット)をビザンツ帝国から奪う。

     この頃、オスマン・トルコの軍団が整備され、ヨーロッパ人を恐れさす。
     軍団は次の2種からなる。
    1. スパーヒ(騎兵)軍団……イスラム教改宗者からなる。
    2. イェニチェリ軍団……キリスト教徒から税として集めた心身健康な子供たちをイスラム教へ改宗させ、厳格な教育を施して組織した常備親衛隊。スルタンへの忠誠は限りないが、身分は奴隷。

    1354
     ガリポリ半島に進出。

    1359〜1389  第3代 ムラト1世 (Murat I) 支配者王(フュダウェンディヤル)
     ヨーロッパに侵入開始。

    1361/62
     トラキア地方 (バルカン半島) に侵攻、ビザンツ帝国第2の都市アドリアノープル(エディルネ)を占領。

    1363
     マリーツァ (アドリアノープル北西70km) で、ギリシア、ハンガリー、セルビア、ボスニアの連合軍を粉砕する。

    1365
     エディルネ(アドリアノープル)に首都を移す。

    1366
     マケドニア、ブルガリア、セルビアにまで北上、これら諸国を征服。

    1375
     ニーシを奪う。

    1376〜1380
     小アジアの君侯国を吸収。

    1382
     ソフィアを奪う。

    1386
     サロニカを奪う。

    1389年6月  コソヴォの戦い
     バルカン諸侯が連合、東ローマ (ビザンツ) 帝国と結び、セルビア王ラザールを中心として反乱。
     鎮圧には成功するが、ムラト1世は陣没。---トルコ側の史料では、セルビア貴族ミロシュ・コビロウィッチが降伏の際、隠し持っていた短剣でムラトを刺したとあり、セルビア文献には、ムラトは交戦中ミロシュと相打ちで戦死したことになっている。
     なお「コソヴォ」(正確には「コソヴォ・ポーリエ」)はセルボ=クロアティア語で、それ以外では「コッソヴァ」と呼ばれた。

    1389〜1402  第4代 バヤジット1世 (Bayazit I) 雷帝(イルディリム)

    1389
     コソヴォの戦いに従軍中、父が暗殺され即位。
     即位直後、稲妻の如く迅速に軍を動かし (あだ名の起源) 、戦場で戦っていた兄弟を処刑した。それ以来、政敵となりそうな兄弟を未然に殺すことがオスマン朝の慣行となる。
     彼以降、周辺国の征服は、諸侯の自発的でばらばらな行動から、効率的な戦略へと組織化される。
     バヤジットはまずブルガリアを征服、次にセルビアを属領化し、小アジアの独立イスラム諸侯国も征服していった。

     セルビアを臣属させ、小アジアの小侯国 (ベイリック) を併合してビザンツ帝国と戦う。

    1396年9月25日  ニコポリス十字軍
     オスマン朝の強大化に危機感を募らせたヨーロッパ諸国は、ハンガリー王ジギムスントを中心に、仏、独、英、フランドル、ルクセンブルク、ポーランド、ヴァラキア、モルダヴィア等が参加した対オスマン・トルコ十字軍(ニコポリス十字軍)を結成。ドナウ河畔ニコポリスでトルコ軍と対決。
     しかし決戦はたった3時間でトルコの圧勝に終わり、10万の西欧救援軍は全滅。
     エジプト在住のアッバース朝カリフからは「ルーム諸国家のスルタン」の称号を贈られ、バヤジットはコンステンティノープル封鎖を続ける。

    1402年7月20日  アンカラ(アンゴラ)の戦い
     突然ティムールの軍勢がアナトリア(小アジア)に侵入。
     バヤジットは急遽アンカラに向かい、ティムールを迎え撃ったが大敗して捕らえられ、オスマン朝は分裂した。
     バヤジット自身も虜となったまま、8ヶ月後の1403年にアク・シェヒルで病没。

    1402〜1412  空位時代

     バヤジットの息子達による後継者争い 。
     メフメトが11年に及ぶ戦いに勝利を収め、オスマン朝を再興。

    1413〜1421  第5代 メフメト1世 (Mehmet I)

     小アジアの大部分を回復。
     即位後8年で死去、後事をムラト2世に託す。


    = 最盛期 =

     
    1421〜1451  第6代 ムラト2世 (Murat II)

     倍旧の復旧を見せ、ヨーロッパへの攻撃を再開。

     最初、本格的に東ローマ帝国の首都コンスタンティノープル(イスタンブール)を攻略し始めるが、失敗に終わる。
     代わりに帝国最後の要地サロニカを占領。
     その後、目標を東欧に振り替える。

    1442〜1443
     この間、メフメト2世が帝位に就くが、1444年、また元に戻る。

    1444
     ヤノシュ・フンニアディ率いるハンガリー軍をヴァルナで破る。

    1449  第2次コソヴォの戦い
     ハンガリー方面の反オスマン勢力を粉砕。

    1451〜1481  第7代 メフメト2世 (Mehmet II) 征服王(ファーティヒ)

    1451
     ムラト2世の子メフメトが、幼弟を殺して即位。
     直ちにコンスタンティノープル周辺に要塞を建て、あらゆる兵器を揃え、ビザンツ帝国首都攻略に着手。

    = オスマン艦隊の山越え =

     1453年当時、ビザンツ帝国はほぼ全ての領土を失い、コンスタンティノープルという一都市のみの国家となっていた。だが、オスマン朝トルコ軍の攻撃には頑強な抵抗を示し、金角湾の入り口を太い鎖で封鎖し (これが本当の“封鎖”か) 、オスマン艦隊の侵入を拒んだ。
     そこでオスマン軍は、夜闇に乗じてボスフォラス海峡から船を引っ張り上げ、丸太を使って山を越えて運んだ。
     翌朝、金角湾に浮かんだオスマン艦隊を目の当たりにしたビザンツ兵たちは一気に戦意を喪失し、コンスタンティノープルはあっという間に陥落することとなった。

    1453年5月29日  コンスタンティノープル陥落
     コンスタンティノープルを征服し、ビザンツ帝国を滅ぼす。
     コンスタンティノープルをイスタンブールと改称して遷都。
     すぐさま周辺地域に支配を及ぼし、ペロポネソス半島も支配。

    1461
     黒海南東のトレビゾンド帝国を併合。

    1475
     黒海北岸のカッファを征服、クリム・ハーン国を臣属国とし、黒海に支配権を確立。

     バルカンに侵入、セルビア王国を滅ぼし、内政面でも帝国の基礎を確立。

    1481〜1512  第8代 バヤジット2世 (Bayazit II)

     兄弟ジェムの反乱を鎮圧。
     多くのモスクやイスラム学院を創建、学問を庇護。
     晩年、イランのサファヴィー朝の干渉で国内外に混乱が広がる中、息子のセリムに廃される。

    1512〜1520  第9代 セリム1世 (Selim I) 冷酷王(ヤウーズ)

     1515〜1517年に大規模な東方遠征を行い、イラン、エジプトを征服してイスラム世界に君臨。
     即位時すでに40歳を越えており、気性が激しく、即位後国内のシーア派4万人を処刑したり、治世中に多数の高官を処刑したので、「冷酷者」と呼ばれた。
     一方では文学を愛し、自らの詩集を持つほどだった。

    1514年8月
     シーア派国家サファヴィー朝を倒すためイランに侵攻、敵首都タブリーズ近郊チャルディランでの決戦に勝利し、クルディスタン、メソポタミアを奪い、タブリーズをも領土に加えた。

    1516
     マムルーク朝 (ブルジー・マムルーク朝) と雌雄を決すべく南下、シリアを攻略。
     6月24日、アレッポ (トリポリ、ダマスクス近郊) の戦いでは砲兵隊の活躍でマムルーク軍を敗走さす。

    1517年2月15日
     遂にエジプトのカイロに入城、ブルジー・マムルーク朝を滅ぼし、カリフの称号を手に入れる。→「スルタン=カリフ制」の開始。
     帰還に当たって、都市の有力者、大小商人、ユダヤ、キリスト教徒の有力者、特殊技能を持つ職人、芸術家、著名なウラマーや法学者などの知識人、大勢の行政官などを強制的に連れ帰った。カイロが果たしていた文化的・経済的役割をイスタンブールに移すためだった。

    1520〜1566  第10代 スレイマン1世 (Suleyman I) (大帝)

     オスマン帝国の全盛期を現出した最大のスルタン。トルコでは「立法者 (カヌーニ)」、ヨーロッパでは「壮麗者 (エル・マニフィコ)」と呼ばれる。
     46年間の治世に13回の遠征を行い (うち10回は東中欧、3回はイラン)、最大領土を保有。ヨーロッパとアジア、アフリカにまたがる最強帝国として、オーストリア、フランス両国の紛争に関与するなど、16世紀中期のヨーロッパ政局に大きな発言力をもった。
     内政面では正規軍を増強、封建制度・教育制度・法制を確立し、基本法典『ムルテカ・エル・エブハル』を集大成するなどして、文運の隆盛を招いた。

    1521
     ベオグラード遠征(スレイマン最初の親征)。

    1522
     ロードス島攻略(第2回親征)。
     ムスリムに対する海賊活動を行っていたヨハネ騎士団を降伏させ、東地中海の制海権を確保。

    1526  モハッチの戦い
     ハンガリー王ラヨシュ2世を敗死させ、ハンガリーのほぼ全土を支配下に置いた。
     この後ハンガリーは1918年に至るまで独立を失う。

     ハンガリーの防衛ラインが突破されたため、オーストリアはオスマン・トルコと直接対峙することに。
     フランス王フランソワ1世は、宿敵ハプスブルク家のカール5世を倒すため、オスマン帝国に接近。

    1529  第1次ウィーン包囲
     2万4000の兵と砲30門、ドナウ渡河用の舟800艘を用意して、ウィーン攻略に向かうが、大雨で地面はぬかるんだため大砲の威力が発揮できず、失敗。
     それでもこの事件はヨーロッパ世界を震撼させた。

    1534
     スペインに服していたチュニスを奪取。北アフリカにおけるオスマン帝国の地位を強化。

    1535
     フランスに「キャピトゥレーション (トルコ領内での居住・通商等の保証状)」を与える(最初のキャピトゥレーション付与)。

    1536
     フランスと同盟。

    1538  プレヴェザの戦
     大提督(カプダン・パシャ)バルバロス・ハイレッディン指揮のトルコ艦隊が、ギリシア西岸アルタ湾口のプレヴェザ攻囲中の西欧諸国 (スペイン、ヴェネツィア、ローマ教皇) の連合艦隊を撃破。
     この結果トルコは全地中海の制海権を獲得。

    1541
     ハンガリーを再び属州化。

    1543
     サファヴィー朝に対する遠征を開始。
     バグダード、バスラを占領、イラクのほぼ全土を支配下においた。

    第7次遠征
     東欧のトランシルヴァニアに進軍。

    第8次遠征
     トランシルヴァニアに宗主権を認めさす。

    第9次遠征
     ハンガリー諸市の反乱を鎮圧。

    第10次遠征
     サファヴィー朝の内乱に乗じ、ダブリーズ、イスファファンまで進入。

    第11次遠征
     ヨーロッパに向かう。

    第12次遠征
     再びサファヴィー朝の内乱に干渉。

    1566年9月6日
     ヨーロッパ戦線へ出陣したスレイマン1世は、ハンガリーのジゲットヴァル要塞の攻略中に陣中で没す。

    [スレイマン時代の内政・文化]  
       
    • 君主専制・中央集権化。  
    • 文武諸官に身分に応じた封地を与え、兵力を養った。 → のちに常備軍(イェニチェリ)へ軍事力の重心を移す。  
    • 首都イスタンブールを中心に大モスク、トプカプ宮殿などの大建築を挙行。  
    • 国内の少数民族は自治を認められ、宗教・習慣を保持。  
    • 素朴な民衆文学も芽ばえる。  

    1566〜1574  第11代 セリム2世

     無能だが、名宰相ソコリ・メフメト・パシャが国政を取り仕切る。

    1571  レパントの海戦
     トルコ海軍はコリント湾内でスペイン艦隊に大敗。
     それでも三大陸にまたがる広大な領土は揺るぎを見せなかった。


    = 停滞期 =

     
    1574〜1595  第12代 ムラト3世

     やはり無能だが、同じくソコリ・メフメト・パシャが国家を運営。
     この頃からオスマン帝国は明らかに停滞期に入る。

    =停滞の原因=  
       
    • 外部要因
      • 絶対主義戦争で軍事技術が発達したヨーロッパ諸国からの反撃
      • 東方からサファヴィー朝ペルシアの圧力
       
    • 内部要因
      • 暗愚凡庸なスルタン続出。
      • ハレム勢力増大による政治の腐敗
      • 法外な重税
      • イェニチェリを含めた軍団の質的低下
       

    1656〜
     キョプリュリュ家出身の諸宰相が国政担当。
     国家の状態はかなり改善され、国力は回復。

     だが、一時、カラ・ムスタファがキョプリュリュ家に代わって大宰相の地位に就き、冒険的政策を取ってキリスト教西欧諸国を制圧しようと試みる。

    1683  第2次ウィーン包囲
     失敗に終わる。

    1695-96
     ロシア帝国のピョートル1世 (位1682〜1725) に黒海沿岸のアゾフを奪われる。

    1697
     ツェンタ (ベオグラード北北西130km) でオーストリア軍に敗れる。

    1699  カルロヴィッツ条約
     イギリス、オランダの仲介で、オーストリア、ポーランド、ヴェネツィア共和国との間に締結。
     トルコはハンガリーの大部分、トランシルヴァニア、スロヴェニアクロアティアをオーストリアに譲り渡した。

    1703〜1730  第23代 アフメト3世

     ヨーロッパ諸国のオスマン・トルコへの圧迫が強まる。
     その一方では文運は再び盛んになり、フランス文化の影響下、人々は花鳥・美酒・歌舞音曲に明け暮れた。チューリップが輸入され、珍重されたので「チューリップ時代」とも呼ばれる。

    1711
     ロシア帝国のピョートル1世、ベッサラビア方面に進出。

    1718  パッサロヴィッツ条約
     ハンガリーの残余と北部セルビアをオーストリアに割譲。

     同じ頃、エジプトでマムルーク・ベイの反乱が発生。

    1730
     イェニチェリ軍団の反乱で、「チューリップ時代」=アフメト3世の治世ははかなく終わりを告げる。


    = 衰退期 =

       内憂外患が相次ぐ。
    1768〜1774  (第1次)ロシア=トルコ(露土)戦争
     クチュク・カイナルジ (キュチュク・カイナルジャ) 条約でドン、ドニエプル両河口、アゾフ海沿岸地帯をロシアに割譲。

    1789〜1807  第28代 セリム3世

     聡明なスルタンで、弱体化した帝国を立て直すべく、国家体制の刷新事業(ニザーム・ジェディード)に着手。権威を回復、弛緩した政治のたずなを締める。

    1792
     ヤッシーの和約で、さらに領土縮小。

    1807
     イェニチェリの反抗のため、セリム3世は改革半ばで退位。

     続くマフムト2世→アブデュル・メジト1世→アブデュル・アジズ1世に至る19世紀前半の3帝60年は、オスマン朝の政治経済の近代化が進められた改革期。

    1808〜1839  第30代 マフムト2世

    1821〜1829  ギリシア解放戦争
     帝国支配下のギリシアが独立戦争を起こし、西欧諸国がこれに干渉。
    1821
     ギリシアがペロポネソス半島で反乱開始。

    1822
     ギリシア、独立を宣言。

    オスマン帝国はエジプトの援助でこれを鎮圧しようとしたが、英・仏・露が干渉。
     三国艦隊はナヴァリノの海戦でオスマン軍を撃破。

    1826  軍政改革
     イェニチェリ軍団を全廃し、ヨーロッパ式の常備軍を導入。

    1829  アドリアノープル条約
     ギリシア独立を認める。

    1832〜1833  第1次エジプト・トルコ戦争
     事実上独立していたエジプトの太守(パシャ)ムハンマド・アリー (ムハンマド・アリー朝初代 位1805〜1848) の侵略に対抗。

    1839〜1861  第31代 アブデュル・メジト1世

     「タンジマート(恩恵改革)」(=旧体制から脱却し近代法治国家への転換を図る西欧化改革運動)を開始し、改革派スルタンの中でも抜きん出て成果を上げた。

    1839  ギュルハネ勅令
     「タンジマート」開始(1839〜1876)。
     これは、住民を宗教的に分類差別するのではなく、全オスマン臣民に平等な政治的権利を認めるものであり、従来のイスラム帝国としての国家アイデンティティーを放棄し、新しい一つの国家としてオスマン帝国を機能させる試み。
     法律、軍制、学制などの近代化に重点。
     しかし状況は容易に変わらず、逆に経済構造が弱体化。

    1839〜1841  第2次エジプト・トルコ戦争
     エジプトの支配者ムハンマド・アリーの領土拡大の意図は、英・露・オーストリア・プロイセンによるオスマン朝支持でくじかれ、エジプトはクレタ島とシリアの支配権を失う。

    1853〜1856  クリミア戦争
     英・仏・サルデーニャと連合してロシアの南下と戦う。
     1年に渡る攻囲戦でセバストポリ要塞を陥落させ、ロシアを破り、トルコの独立と領土の保全が確約された。反面、トルコの対列強従属度は強まった。
     タンジマート改革はこの戦争に妨げられ、下火となる。

    1861〜1876  第32代 アブデュル・アジズ1世

     専制政治に逆戻りして失政を招き、憲法制定を目指す「新オスマン人」などから批判を生む。

    1866
     トルコ領クレタ島のギリシア系住民、ギリシアへの併合を要求して反乱開始。

    1875〜1878
     ボスニアでスラブ系農民の大反乱が勃発。
     大国の介入を呼び、ボスニアは1878年にオーストリア=ハンガリー帝国の占領下に置かれることとなる。

    1876
     宰相ミドハト・パシャ (1822〜1884) らがアブデュル・アジズ1世を廃す。

    1876  第33代 ムラト5世
     在位わずか数ヶ月。

    1876〜1909  第34代 アブデュル・ハミト2世

    1876年12月23日  ミドハト憲法発布
     大宰相ミドハト・パシャらが起草した自由主義的な民主憲法。上下両院から成る国会と責任内閣制が樹立された。
     帝国は第1次立憲制を迎え、タンジマート改革は一応の決着をみた。

    1877〜1878  露土戦争 (ロシア=トルコ戦争)
     スラブ人蜂起を支援するロシアと戦争し敗れる。

     アブデュル・ハミト2世は、戦争を口実にミドハト憲法を停止し、その後30年に渡り、スルタン専制と汎イスラミズム体制を維持。

    1878年3月  サン・ステファノ条約
     トルコはバルカン領土を失う。

    1878年6〜7月  ベルリン会議
     バルカン及びカフカス方面喪失が確定(マケドニアのみ返される)。
     セルビア、モンテネグロ、ルーマニアが独立、ブルガリア自治公国も成立。

    1880年代
     マロン派キリスト教徒のみならず、アラブ人もナショナリズムに覚醒。

    1895〜1896
     オスマン朝によるアルメニア人虐殺。その数20万人(?)。

    1897  希土戦争 (ギリシア=トルコ戦争)
     クレタ島のギリシア系住民反乱支援のため、ギリシアが出兵。
     英・仏・露・独・伊・オーストリア6ヵ国はギリシア沿岸を封鎖してトルコを支援、勝利。

    1908年7月  サロニカ革命
     エンヴェル・パシャ率いる青年トルコ党(統一・進歩委員会)が革命に成功。

    1909
     アブデュル・ハミト2世、憲法復活後いくぱくもなくなく反革命を企て、廃位される。


    = 革命期 =

     

    1909〜1918  第35代 メフメト5世

     青年トルコ党はメフメト5世を擁して政権獲得、立憲政治を展開するが、統一進歩派と一致自由派の間で党内対立が発生。
     また、「オスマンリー主義」、つまり、イスラム主義でもトルコ主義でもない、オスマン帝国の臣民を一つの新しい国民として統一してゆく考え方を提唱したところ、帝国内諸民族から反発を受け、失敗。 → そこで逆に汎トルコ主義を唱え、非トルコ系民俗を圧迫した。

    1911  伊土戦争 (イタリア=トルコ戦争、トリポリ戦争、リビア戦争)
     イタリアが、英・仏・露の黙認のもとにオスマン帝国に宣戦。北アフリカのトリポリ、キレナイカを次々と占領、この地域の古名「リビア」を復活させて支配権を確立。

    1912年10月  第1次バルカン戦争
     バルカン同盟4国(ギリシア、セルビア、ブルガリア、モンテネグロ)が、伊土戦争に敗れたトルコに宣戦布告。
     トルコは敗れてイスタンブール周辺を除くヨーロッパ領土(ルーメリア)の大部分と、クレタ島を失った。
     またアルバニア自治侯国が独立。

    1913年6月  第2次バルカン戦争
     旧トルコ領マケドニアをめぐり、ブルガリアがセルビアとギリシアを攻撃。トルコ、モンテネグロ、ルーマニアが後者に荷担。
     ブルガリアは敗れてマケドニアの大部分、南ドブロジャ、東トラキアを放棄。この結果、バルカン同盟は崩壊。
     2度のバルカン戦争の結果、トルコはトラキア地方を除くバルカン半島から撤退。

     一連の危機で名声を高めたエンヴェル・パシャ、国政を握って帝政ドイツと結ぶ。

    1914〜1918  第1次世界大戦
     しばらく中立を保ったが、やがて同盟国側に立って参戦。

    1915〜1916
     トルコによるアルメニア人大虐殺。犠牲者100万人余。

    1918年10月30日  ムドロス休戦協定
     連合国側に降伏。
     青年トルコ党政権は、責任者の逃亡で自然消滅。
     次のような事態が相次いで起こる。
    • 連合国によるイスタンブール占領
    • イタリアによるアンタリア地方とコニアの占領
    • ギリシアによるアナトリア西部イズミル周辺の占領
    • フランスによるアナトリア南部キリキアの占領
    • クルド人によるクルド人国家創設の分離独立運動
    • アルメニア人によるアナトリア東部でのアルメニア共和国建設


     こうしたトルコ国家の危機に際し、ムスタファ・ケマル・パシャらが民族的抵抗運動を開始。エルズルムやシヴァスで東方諸州会議を召集して「国民盟約」を作り上げる。

    1918〜1922  第36代 メフメト6世

    1919〜1922  希土戦争 (ギリシア=トルコ戦争)
     第1次大戦で戦勝国となったギリシアのベニゼーロス首相は、大ギリシア主義を掲げて敗戦国トルコの港市イズミルに出兵、アナトリアの領土化をもくろむ。

    1920年4月
     アンカラでケマル・パシャら民族抗戦派が「大国民議会」を結成。
     オスマン帝国政府はケマルとその一派に死刑判決。

    1920年8月  セーヴル条約
     第1次大戦の講和条約。アナトリアのトルコ領を分割するもの。
     メフメト6世と国民議会派は、その「暫定的」批准を認定。

    1920〜1922  トルコ解放戦争
     ケマル・パシャはセーヴル条約の批准に抗議して、1920年6月、イスタンブール政府とは別に独立戦争を開始。
     まず東部アナトリアへ進撃、アルメニア人を討つ。1920-21年、トルコ民族派のテロと暴虐で数千人のアルメニア人が殺される。
     次いで1921年、ナトリア西部へ向かい、ギリシア軍の攻勢を挫く。1922年、イズミルをギリシアから奪還。

    1922
     ケマル・パシャの圧勝で希土戦争終結。完敗したギリシアでは、戦後の反動化で一時王政に復古した。

    1922年11月  トルコ革命
     ケマル・パシャがアンカラに召集した大国民議会は11月1日、スルタン制の廃止を宣言。
     メフメト6世は17日、国外に亡命し、ここにオスマン朝は名実共に滅ぶ。

     ケマルはトルコ共和国初代大統領に選出さる。

    1923年7月  ローザンヌ条約
     セーヴル条約は破棄され、新たな講和条約が結ばれる。

    1923年11月  共和国宣言
     トルコ共和国の成立。
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    更新日:2002/12/31

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