パジャジャラン王国
Pajajaran  ?〜1579
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 ジャワ島西部のスンダ人の王国。
 ジャワ人マジャパヒト王国に対抗し、「パジャジャラン」の名も「(マジャパヒトと)対等の地位」の意味だという。

1333
 ラトゥ・デワタ (デワタ王) が西ジャワのボゴールを王都に定める。(古代ジャワ文字によってスンダ語で書かれた「バトゥ・トゥリス碑文」による)

1357
  パジャジャランの王女ディアピタロカがマジャパヒト王国の宰相ガジャ・マダの懇願で同国王ハヤム・ウルックに嫁入りすることになり、国王プルブ・マハラジャ (=シリワンギ) も宴席に招かれたが、そこでガジャ・マダの使者から、王女は実は王妃ではなく、妾になるのだと聞かされた。
 謀略に引っかかった国王は殺され、王女も自害して果てた(マジャパヒトの年代記『パララトン』による)。

しかし王国は独立を守り通した。

16世紀初め
 この頃には、西ジャワ最後のヒンドゥー教国となっており、ドゥマク国を盟主とするイスラム都市国家連合から激しい攻撃を受けた。
 当時、都はパクアンにあり、主要港は、
  • バンテン(誤ってバンタムとも)
  • スンダ・クラパ(現ジャカルタ

 スンダ・クラパは、イスラム国家連合の脅威に対抗するため、当時到来したポルトガルに与えられた。

1522
 ポルトガルと条約を結ぶ。

1526/27
 バンテン港は、ドゥマク国の援助を受けたイスラム教徒ファレテハン(ファタヒラー)に奪われる。

1527年6月2日
 バンテン王となったファレテハンとドゥマク国のイスラム連合軍は、ポルトガル軍を駆逐して良港スンダ・クラパを奪い、ジャヤカルタ=「勝利の町」と命名。これが「ジャカルタ」の語源になった。

1579
 パジャジャラン王国は、バンテン王国の第2代スルタン、ユースフに併合されて滅ぶ。
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更新日:1999/03/07

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