ユーゴスラヴィア連邦
Savezna Republika Jugoslavija / Federal Republic of Yugoslavia [英]  1945〜1992(以後は新ユーゴ)
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 ヨーロッパ南東部、バルカン半島西部に位置する連邦共和国。
1世紀頃
 ローマ人が侵入。属州パンノニアの一部を成す。

6世紀頃
 南スラヴ人の侵入。

7世紀頃
 南スラヴ人はセルビア人クロアティア人スロヴェニア人に分化。
 また古代マケドニア王国の地に移住したスラヴ人は、現在のマケドニア人の先祖となった。従って、現マケドニア人は、ギリシア系の古代マケドニアとは直接のつながりはない。

8世紀
 スロヴェニア人はフランク王国の支配を受けてカトリックを受容。

9世紀末
 セルビアは東方正教会、クロアティアは西方カトリックの勢力下 (ラテン文字を使用) に。

1091
 クロアティアはハンガリーの支配を受ける。

12〜14世紀
 セルビア王国の繁栄。その中心は現コソヴォ。
 セルビアに従属するゼータ公国は、現モンテネグロの前身。

12世紀
 ボスニア公国成立。

13世紀後半
 スロヴェニアはハプスブルク家の支配下に入った。

1389  コソヴォの戦い  
 セルビアはじめバルカン諸侯の連合軍が、オスマン帝国(トルコ)に惨敗。
 マケドニアはこれ以降、オスマン帝国領に。

15世紀〜
 セルビアを初めとするバルカン諸国は、オスマン帝国(トルコ)やオーストリア・ハンガリー二重帝国の支配下に。

15世紀前半
 ヘルツェゴビナ公国が成立。

15世紀後半〜末
 ボスニア・ヘルツェゴビナもオスマン帝国(トルコ)の支配下に入り、イスラムへの改宗が広く行われた。

16世紀〜
 ゼータ公国だけがオスマン・トルコの支配を免れた。

1867
 オーストリア・ハンガリー二重帝国成立と同時に、クロアティアはハンガリーとの協約(ナゴドバ)により自治を獲得。

1878  ベルリン条約
 セルビア、モンテネグロの独立が承認される。

1908  ボスニア・ヘルツェゴビナ併合問題
  ボスニア・ヘルツェゴビナがオーストリア・ハンガリー二重帝国に併合される。

1910
  ゼータ公国は、モンテネグロ王国 (Montenegro) となる。
 正式王国名はツルナ・ゴーラ (Crna Gora) で「黒い山」の意。

1912〜1913  バルカン戦争
 オスマン帝国の敗北で、マケドニアはセルビア、ブルガリア、ギリシアに三分割された。

1914年6月28日
 ボスニアの首都サライェヴォでオーストリア皇太子がセルビア系テロリストに射殺される。

1918
 第1次大戦後の1918年、セルビア=クロアティア=スロヴェニア王国が建設される。
 ボスニア・ヘルツェゴビナやモンテネグロ王国も参加したが、中心はセルビア王国。 

1929
 ユーゴスラヴィア王国と改称。しかし民族問題で紛争が続いた。

1941
 ナチス・ドイツに占領される。
 しかし、ユーゴスラヴィア共産党書記長チトー (Tito 1892-1980) が対独パルチザン部隊を組織、ユーゴスラヴィアを解放に導く。
 なおチトーの本名は Josip Broz で、「チトー」は共産党の党員名。

1945
 王制廃止と人民共和国成立の宣言。ユーゴスラヴィア連邦の成立。
 連邦は、

  • セルビア共和国
  • クロアティア共和国
  • ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国
  • スロヴェニア共和国
  • マケドニア共和国
  • モンテネグロ共和国

の6共和国から構成された。
 首相にはチトーが就任。  

1946
 社会主義憲法を制定。産業国有化、農業の集団化が進められる。  

1948
 コミンフォルムから民族主義的・右翼的偏向と非難されて除名される。
 ソ連の指導を離れてからは、独自の社会主義路線を推進し、東西両陣営間にあって積極的中立政策をとった。

1953
 チトーが初代大統領に就任。
 ソ連の介入を排して労働者自主管理による独自の社会主義を指導。
 後年は反対派弾圧など独裁的傾向が強まる。

1950年代初め
 農業協同組合への加入脱退の自由が認められる。

1965
 経済改革で、国内企業間の自由競争が認められる。

1980
 チトー大統領死去。
 死後、特に東欧革命において激しく批判される。

 チトーの死後、中央の連邦政府への求心力が弱まると、セルビア中心の中央政府と自立を志向する共和国 (特に経済的な先進地域であるクロアティア) との対立が一気に表面化。
 また、経済的には対外債務が重圧となり、インフレが続く。
= ユーゴの民族問題 =

 (旧)ユーゴの民族問題の複雑さを表現する次のような文句がある。

  • 一つの国家 (旧ユーゴ)
  • 二つの文字 (ラテン文字とキリル文字)
  • 三つの宗教 (ローマ・カトリック、ギリシア正教、イスラム教)
  • 四つの言語 (セルビア語、クロアティア語、スロヴェニア語、マケドニア語)
  • 五つの民族 (セルビア人クロアティア人スロヴェニア人、モンテネグロ人、マケドニア人)
  • 六つの共和国 (セルビア、クロアティア、スロヴェニア、、ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロ、マケドニア)

 1980年のチトー死後、こうした民族間の対立が噴出、1991年以降激しい内戦が繰り広げられるに至る。

1980年代後半
 セルビア共和国幹部会議長ミロシェヴィッチは、コソヴォ自治州の多数派アルバニア系住民に認められていた自治権を奪うことでセルビア民族主義を煽り、セルビア共和国内での政治基盤を固める。

1990
 初の複数政党制による選挙が実施され、セルビアにおいては民族色の強いセルビア社会党が政権掌握。

1991年6月
 クロアティアスロヴェニアが独立を宣言。
 その直後、クロアティアでは、国内のセルビア人勢力およびユーゴスラヴィア連邦軍との間で激しい戦闘が行われた。

1991年11月
 マケドニアも独立を宣言。

1992
 ボスニア・ヘルツェゴビナが独立を宣言。旧ユーゴスラヴィア連邦は崩壊し、セルビア共和国とモンテネグロ共和国は2国だけで新たにユーゴスラヴィア連邦を結成(新ユーゴスラヴィア連邦)。
 しかしボスニア・ヘルツェゴビナでは、イスラム教徒、セルビア人クロアティア人の3勢力の対立が激化、ユーゴスラヴィア内戦のうちでも最も激しい内戦に陥った。この「ボスニア紛争 (またはボスニア内戦)」は1992〜1995年の内戦期間中、25万人以上の死者を出す。
 一方、新ユーゴでは、セルビア大統領ミロシェヴィッチが警察とマスコミを掌握し、実権を握った。

 一連のユーゴ内戦では、「民族浄化みんぞくじょうか, ethnic cleansing)」が行われた。
 民族浄化とは、ある地域から異民族を一方的に排除し、住民構成の純化を図るもので、強制移住や追放、住民交換のほか、大量虐殺、同化など様々な手段が取られる。
 1990年以降、セルビアクロアティア、ボスニア・ヘルツェゴビナの各勢力が、それぞれ民族混住地域において大規模かつ組織的な民族浄化策を取ったことで、この言葉が広く知られるようになった。

1994年4月  ゴラジュデ危機
 国連安保理が指定したボスニア内の6カ所の安全地域の一つゴラジュデに、セルビア人勢力が攻撃。国連は限定空爆を実施。
 新ユーゴでは、ボスニア内戦とそれに絡む国際社会の制裁で経済は大打撃を受け、1994年には1ヵ月で300万倍の物価上昇というハイパー・インフレに見舞われた。

1994
 ギリシアがマケドニア共和国に対し、「マケドニア」という国名の使用に反対して経済制裁を行う。
 これは翌1995年、国連がマケドニア国旗から古代マケドニア王国の紋章をはずすなどの調停を行ったため、両国関係は正常化に向かった。

1995年5月
 NATO軍がボスニア・ヘルツェゴビナの内戦に介入して本格的な空爆を行う。

1995年7月
 国連安保理指定のボスニア6安全地域の一つ、スレブレニツァで7000人以上の犠牲者。

1995年8月末
 NATO空爆が持続的に実施されるようになる。
 これを契機に、アメリカ主導の調停でボスニア内戦に関する和平協定が調印された。
 協定は、イスラム教徒とクロアティア人とで構成するボスニア連邦に国土の51%、セルビア人共和国に49%を割りあて、これら二つの民族政府の上に中央政府を置いた。

1996
 ボスニア・ヘルツェゴビナの統一総選挙。国家元首にあたる中央政府の幹部会議長にはイゼトベゴビッチ (Alija Izetbegovic 1925〜 ) が選出された。

1997年7月
 ミロシェヴィッチが(新)ユーゴスラヴィア連邦の大統領に選出される。

1997年末頃
 セルビア共和国南部のコソヴォ自治州で、アルバニア系住民の武装組織「コソヴォ解放軍」が武力による独立闘争開始。

1998年2月
 ユーゴスラヴィア連邦セルビア共和国のミロシェヴィッチ政権は、「コソヴォ解放軍」に対する徹底弾圧を開始 (コソヴォ紛争) 。

1999年3〜6月
 ユーゴスラヴィア連邦によるコソヴォ自治州のアルバニア系住民への攻撃を辞めさせるため、NATO軍がユーゴを空爆。
 この時点までのユーゴの弾圧で、コソヴォのアルバニア系住民の犠牲は、死者2000人以上、難民25万人
 空爆開始後4月初めまでに、家を失った人の総数は76万5000人、自治州を追われた難民は29万人以上にのぼる。

 国際人権団体「ヒューマン・ライツ・ウォッチ」2000年2月7日の発表では、一連の空爆で民間人約500人が巻き添えで死亡。
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更新日:2002/12/31

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