| 依頼内容 |
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バッハとヘンデルはバロック後期の2大巨匠ですが、二人の生涯は奇妙な符合を見せています。 生まれた国(ドイツ)が同じなら、生まれた年も同じで、しかもどちらも晩年に視力を失うという悲運に見舞われています。
ところで、妙な噂を聞きました。 この二人、失明したのはどちらも目の手術の失敗が原因で、しかもその手術は両方とも同じ医者が担当したそうではないですか。
二人とも、この手術がもとで死ぬか作曲人生を終えるかしました。 二人の大作曲家の目をつぶして死に追いやったこのとんでもない奴は、一体どこのどいつなんでしょうか?
| 調査レポート |
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ご報告申し上げます。
こいつの名前はジョン・テイラーといって、ペテン師に等しいやぶ医者でありました。 彼に盲目にされた人々は数えきれず、同じイギリス人のサミュエル・ジョンソンはテイラーのことを「ずうずうしさが無能を圧倒した例」と呼んでおります。
にも関わらず、テイラーは「法王庁、皇帝、王侯後任の眼科医」「光学教授」その他もろもろの称号を帯び、大量のお共を連ねて各地を練り歩いては、さらに称号をかき集めました。
聡明なプロイセンのフリードリヒ大王は、1750年4月にテイラーに王室眼科医の称号を与えた時、
「さあ、お前の欲しい物は与えた。 以後この国では目の治療を行うな。 破ったら縛り首にするぞ。 余は国民を余自身と同じように愛しておるから」
と彼に言い渡し、国外に追放しました。
しかし、残念なことにバッハはフリードリヒ大王のようにテイラーの正体を見抜くことは出来なかったのであります。
1749年5月、バッハは脳卒中で倒れ、視力が急低下していきます。 そこへ名眼科医というふれこみでやってきたのがテイラーでした。
1750年3月にライプツィヒにやってきたテイラーに、バッハは治療を頼みました。 診療代は文字通り“目が飛び出すほど”高く、2回に渡る手術はひどい激痛を伴うものでした。
手術後、テイラーは記者会見を行い、手術は成功でバッハの視力は完全に回復した、と自慢げに発表しております。
ところがバッハの目はちっとも見えるようにならなかったのでありました。 テイラーの帰国後バッハを診察したライプツィヒ大学医学部のクヴェルマルツ教授は、「テイラーの手術は完全に失敗で、バッハは後炎症などの後遺症に悩まされ続けている」と証言しました。
そして、65歳の高齢をおして大手術を受けたバッハは体力消耗がひどく、目の手術から4ヶ月後の7月28日にとうとう亡くなったのであります。
その2年後の1752年、ジョン・テイラーは性懲りもなく今度はヘンデルの前に姿を現しましたのであります。
ヘンデルの視力はオラトリオ「イェフタ」を作曲中の1751年2月頃から低下の一途を辿り、その夏に有名な眼科医サミュエル・シャープの治療を受けたのでありますが、緑内障で「もう治る見込みはない」と言われたのでした。
翌1752年8月にはヘンデルも脳卒中で倒れ、遂に視力を失いました。 そこで二人の眼科医がヘンデルの目の治療に当たりました。 一人は前に皇太子の侍医をつとめたウィリアム・ブロムフィールド、そしてもう一人があのジョン・テイラーだったのであります。
ブロムフィールドは11月3日にヘンデルの目を手術しました。 視力は一時回復したかと思われましたが、結局目は見えるようにはなりませんでした。
この時テイラーも手術をしたかどうかは定かではありませんが、やった可能性はあります。
屈強なヘンデルはバッハと違い、危険極まりないいかさま師に目をいじくられながらもその後8年間も生き延びたのであります。 しかし失明のため、以前のように旺盛に作品を生み続けることは出来なくなってしまったのであります。
テイラーは自らの悪業を、自伝にこう記しています。 嘘だらけなので、つっこみを入れながら引用いたします。
ライプツィヒでは、すでに88歳〔おいおい、65歳だろ!〕にもなっていた音楽の巨匠に手術を施し、その視力を完全に回復させた〔嘘つけ、「視力を奪った」くせに〕。この巨匠は、あの有名なヘンデルと一緒に教育を受けた人物である〔これもでたらめ。二人は会ったこともない〕。またヘンデルの場合も、瞳孔の動きや光などの状態からみてうまくいくように思えた。しかし実際には、麻痺を引き起こす病気によって、眼底がすでに壊れているのがわかったのである。
あまりにいい加減な記述で、あきれてしまいます。 こうなると、ヘンデルの眼底が破壊されたのも「麻痺を引き起こす病気」ではなく、「テイラーが行った変な治療法」の間違いではないか、と勘ぐりたくなります。
世の中には人類に害悪しか及ぼさない人間もいるものであります。
以上、ご報告申し上げます。