依頼内容

 常にクラシック音楽のヒットチャートの上位にいる名曲「四季」を作曲したのはヴィヴァルディですが、彼はすでに生前から広く知られ、かの大バッハもヴィヴァルディの音楽を研究したといいます。

 ところが、です。

 私は妙なうわさを聞きました。 ヴィヴァルディはこれほど有名な作曲家だったのに、死んだ時には一文無しだったというではないですか。
 その噂は本当でしょうか? そんな変な話が、あるものなのでしょうか?


調査レポート

 ご報告申し上げます。


 ヴィヴァルディがほぼ無一文の状態で死んだこと、これは事実であります。
 ただ、以下で述べますように、これを本当に“赤貧状態”と言っていいのかどうか、それ自体がまだ謎なのであります。

 生前のヴィヴァルディは名声を欲しいままにしておりました。
 ヴェネツィアのヴァイオリニスト兼床屋の長男として1678年に生まれたヴィヴァルディは、出世の糸口としてお坊さんになるつもりで、1688年に教会付属学校に入り、15年後にはめでたくカトリックの司祭になりました。
 ところがわずか半年後、彼はミサを上げることを辞めてしまいます。
 は? なぜか、でありますか?
 実はヴィヴァルディは喘息(ゼンソク)持ちでありました。 皆が教会で神妙にお祈りしている最中に、げほげほ咳き込んでムードを台無しにするような------しかも教会の中は日本のタイル張りのお風呂の中のように、わんわんと反響するのであります------、そんな司祭は使い物にならないのであります。

 時を同じくしてヴェネツィアのピエタ慈善院付属女子音楽院の先生になったヴィヴァルディは、目を見張る勢いで音楽の才能を伸ばしてゆきました。
 作品の最初の出版は早くも1705年に行われ、1711年にはオランダでも出版されましたから、その時までには彼の名声はイタリアだけでなく、ヨーロッパ中に鳴り響いていたに違いありません。
 ドイツではあのバッハが協奏曲集「調和の霊感」から何曲かを勉強のためにオルガン独奏用に編曲しましたし、ヴェルサイユ宮殿ではフランス国王ルイ15世が1730年頃、突然

「わしゃ『四季』(1725)の中の『春』が聴きたいんじゃ!」
と言い出し、取り巻きが大慌てでミュージシャンたちを集めて演奏した、という騒ぎもありました。

 ところで、この「赤毛の僧侶」(ヴィヴァルディは当時こう呼ばれておりました)は、作曲でどのくらい儲けたのでありましょうか?
 相当なもんでありました。
 例えば、1740年3〜4月にヴェネツィアを訪問したザクセン選帝侯フリートリヒ・クリスチャン公爵のための歓迎コンサート用に、ヴィヴァルディは協奏曲3曲、シンフォニア1曲の合計4曲を書きました。 その報酬としてヴィヴァルディが受け取ったのは15ドゥカーツ13リラですが、これは当時としては目の玉の飛び出る額だそうであります。
 そして続く5月には20曲の協奏曲集を書き、70ドゥカーツ23リラをもらっています。 これらの例から考えると、1曲4ドゥカーツ弱というのがヴィヴァルディに対する新作委嘱の相場だったのでありましょうか。
 当時のあるヴェネツィア人は「“赤毛の僧侶”ヴィヴァルディは一時は推定5万ドゥカーツも稼いだ」と記録しております。

 このように超人気作曲家だったヴィヴァルディは、何とも不思議なことに、今述べた1740年5月の協奏曲集を仕上げたあと、ふっつりと行方をくらましてしまうのであります。
 研究によると、1740年の秋にオーストリア南部のグラーツに行ったらしいのでありますが、その翌年の1741年7月末、ヴィヴァルディは同じオーストリアの首都ウィーン死んでいるのであります。 ウィーンの聖シュテファン教会の記録によると、「僧侶アントニオ・ヴィヴァルディ」の遺体は、7月28日に市民病院の共同墓地に埋葬されております。

 死ぬ直前のヴィヴァルディは、なぜかすっからかんになっていたようであります。
 なぜなら、彼が埋葬された共同墓地というのは貧民用の公共墓地であり、また、ヴィヴァルディの葬式にかけられた費用も、最低に近いランクだったからであります。

 もっとも、ヴィヴァルディが贅沢三昧の放蕩を尽くした挙句、文無しになって野垂れ死んだかのように考えるのは、正しくありません。

 ヴィヴァルディが埋葬されたのが貧民墓地だったのは、彼がウィーンの地では身寄りのない外人だったからであります。
 それに、貧民墓地と言うと聞こえが悪いでありますが、そこは実際には市立病院の付属墓地でありました。
 また、亡くなるその日まで泊まっていた屋敷は、ウィーンの劇場が作曲家たちのために準備した立派な館でありました。
 異郷で客死した旅人としては、決してぞんざいな扱いを受けたわけではないのであります。

 とは言え、ヴィヴァルディが最後には無一文同様になり、付き人もなく、ひっそりと息を引き取ったのは事実であります。
 あれほど稼いだお金はどこに行ってしまったのでありましょう? この「赤毛の僧侶」の、生涯最後の1年間に、一体何が起こったというのでありましょうか?

 残念ながら、今回の調査ではこれ以上のことは分かりませんでした。
 しかしながら、当事務所の名誉にかけましても、いつの日か、ヴィヴァルディ晩年の素行を明らかにしたいと願いつつ、報告書の筆を置く次第であります。
 以上、ご報告申し上げます。これは……

*   *   *

 え? 調査が完了していないから調査費の支払いはお預けでありますか?
 わ、わ、ちょっとタンマ、お待ち頂きたいのであります!
 最新の研究は、ヴィヴァルディの死の真実に肉薄しつつあるのであります。

 ヴィヴァルディは最晩年に、自分の大ファンであるオーストリア皇帝カール6世の住むウィーンで一旗上げようと考え、相当な準備とお金をかけてウィーンにやって来ました。
 ところがその矢先、カール6世がぽっくり死んでしまったのであります。
 これはヴィヴァルディには大打撃でありました。パトロンと目 (もく) していた人物がいなくなっただけでなく、ウィーン中の劇場が喪に服し、1年間も閉鎖されてしまったからであります。
 オペラの上演が出来ず、収入がないのに経費だけはかさみ、持ち金がどんどん流れ出していく毎日…… 最後には手持ちの楽譜を叩き得るほどに落ちぶれ、有り金全部使い果たした挙句、健康を害して・…
 ということのようであります。

 「ようであります」と言うのは、以上のことはわたくしが調べたのではなく、ヴィヴァルディ専門サイト「赤毛の司祭」の管理人:カーザヴェーチャさんが、同サイトの「ヴィヴァルディ資料館」中の「Q & A」で明らかにされているからであります。 是非、同サイトを覗いて、詳細をお読み頂きたいのであります。
 また、本調査レポートの作成に当たっても、カーザヴェーチャさんから多大のご協力を仰いだことを、感謝と共にここに記しておきたいのであります。

 は? お前が自分で調べたんじゃないから、やっぱり調査報酬はお預けだ?
 そんな殺生なあ。 私が貧困死してしまうでありますう〜・・・



《主な参考文献》詳しく知りたい人は読んでみよう!

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更新日:1998/04/29;2004/2/10

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