追加レポート

 チャイコフスキーの死の真相に関する調査報告の補足として、アレクサンドラ・アナトリエヴナ・オルローヴァの研究についてもう少し詳しくご報告いたします。

 オルローヴァ女史は長い間旧ソビエト連邦でチャイコフスキー研究に身を捧げた音楽学者でありました。
 彼女は1940年に出版された『チャイコフスキーの日々と年月』という膨大な資料集の編纂に携わった時、その最後の日々の史料がなくて空白になっているのを知り、奇妙に思いました。 それから彼女の執拗な史料と研究が始まります。

 1966年10月、オルローヴァは、レニングラードのロシア博物館で働いていたアレクサンドル・ヴォイトフという老人から話を聞く機会を得ます。 ところが、このヴォイトフ爺さん、チャイコフスキーと同じペテルブルクの法律学校のOB(1914年卒業)で、母校を卒業した有名人の資料を丹念に集めるのが趣味という御老人でありました。
 御老人の資料収集パワーとは大したものであります。 ヴォイトフ爺さんの話から、オルローヴァは次のような事実をつかんだのであります。

 ある日、ロシア貴族院の議員の一人が、皇帝宛の告発状を貴族院に提出した。そこには自分の甥と大作曲家チャイコフスキーとの禁じられた関係が暴露されていた。
 当時貴族院議長を務めていたニコライ・ヤコビ(彼もペテルブルクの法律学校のOB)は母校の名誉を守るため、事態収集の秘密会議を招集した。会議のメンバーには法律学校でチャイコフスキーと同期だった6人も加わっていた。
 会議は10月31日に開催され、チャイコフスキーも呼び付けられた。白熱した議論が5時間以上も続き、結論として、チャイコフスキーは自らの死をもって責任を取るべきであることが決められた。
 自殺用毒薬は翌日、会議のメンバーの一人によって届けられた。チャイコフスキーがそれを飲んで倒れたのはその翌日のことで、砒素中毒によって11月6日に死亡した。

 (注: チャイコフスキーが死亡する経緯は私共の調査報告のメイン・ページと細部で異なっておりますが、それぞれの参考文献に忠実に記しております。)

 オルローヴァがこの事実を論文にして発表したのは1978年のことであります。 学界は大騒ぎとなり、特にアメリカでは盛んに反論が試みられました (皮肉にもオルローヴァはそのアメリカへ亡命しました)。
 中でもロシア文化史の専門家ボズナンスキーは、19世紀末のロシア貴族社会では、同性愛が発覚したからといって自殺することはないと言っております。
 確かに、閉鎖的で非生産的な貴族社会では、同性愛など日常茶飯事(ちょっと偏見が入っているかも……)ですから、それはそうかもそれません。

 チャイコフスキーが自殺を強制されたのは、むしろ、彼がすでにロシア帝国を代表する大作曲家となっていたからではないでしょうか。 ロシアの社会は、国家的芸術家がスキャンダルにまみれて名声を失うことを、決して許さなかったのでありましょう。
 チャイコフスキーは、有名作曲家ゆえ、その名声を守り抜くため、自ら命を絶たなければならなかった---そうだとすれば、何とも悲しい、ちょっぴり皮肉な話ではないですか。

  以上、ご報告申し上げます。

 オルローヴァ説への反論

《主な参考文献》詳しく知りたい人は読んでみよう!

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©1997 早崎隆志 All rights reserved.
更新日:1997/9/23

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