| 依頼内容 |
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ぼくはビゼーの歌劇「カルメン」が大々大好きです。
特にその中のハバネラ「恋は野の鳥」は悶絶するくらいに愛しちゃっているんです。
ところが最近、けしからん噂を耳にしました。
何でも、この「ハバネラ」を作曲したのは、実はビゼーではないらしい、とか。
ふざけたことを言う連中もいるものです。 ビゼーの代表オペラの、そのまた代表的ナンバー、あの「ハバネラ」が、ビゼー自身の作曲でないはずがないではありませんか。
ね?
どうか、「ハバネラ」を書いたのがビゼー自身だったと証明して、下らんことを噂している連中の鼻をすぽーんと明かしてやって下さいな。
| 調査レポート |
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ご報告申し上げます。
え、まことに申し上げにくいことながら、実は「ハバネラ」はビゼーが作曲したものではないのであります。
つまり、ありていに言えば、これは 盗作 なのであります。
では、オリジナルの作曲者は誰かと申せば、これまた意外なことに、あの、イラディエルなのであります。
え? 「あのイラディエル」と申してもご存じない?
よろしい、では、かのタンゴの名曲「ラ・パロマ(鳩)」の作曲者と言えば、「はーん」と納得して頂けるでありましょうか?
イラディエルはスペイン人で、マドリードで作曲家、ピアニスト、音楽教師として活躍していました。 教え子の中には名門のモンティホ伯爵夫人とその二人の娘フランシスカとエウゲニアもおりました。
モンティホ伯爵夫人が花の都パリへ引っ越すと、それを追うように、イラディエルも1850年にパリに移り、作家メリメほか、多くの文化人、音楽家、芸人たちと親しくなります。
そうした仲間たちの誘いで、イラディエルは間もなくアメリカへ演奏旅行に行くのでありますが、途中でキューバに立ち寄り、港町ハバナで聴いたテンポのゆるいダンス音楽に心奪われるのであります。
これぞ「ハバナ風の踊り」、つまり「ハバネラ」と呼ばれる4分の2拍子の舞曲でありまして、1拍目に付点音符を持つ独特のリズムは、アルゼンチンに伝わって「タンゴ」を生むことになるのであります。
1854年にパリに戻ったイラディエルは、フランス皇帝ナポレオン3世の皇后ウージェニーの歌の教師として取り立てられます。
何ともすごい出世でありますが、実はこの皇后ウージェニー、例のモンティホ伯爵夫人の娘エウゲニアなのでありました。 イラディエルが外国をうろついていた1853年に、彼女はナポレオン3世に見初められたのであります。
ともかくも、こうして巧なり名遂げたイラディエルは、じっくりと歌曲集を編纂を始めるのでありますが、その中には、代表作「ラ・パロマ」はじめ、ハバネラで書かれたものが、少なからずあるのであります。
1864年に出版された歌曲集「スペインの花」に含まれる「エル・アレグリート」という歌もハバネラの形式で書かれております。
この歌は別名「アイ・チキータ」とも呼ばれます。 次のような歌詞を持つからであります。
愛しい私のチキータは、私の許に来る。チキータよ、私が焦がれ死ぬほど逢いたがっていたのが分かるだろう。……
実はこの曲こそが、ビゼーの「ハバネラ」の元ネタであります。
そのそっくり度は、他人の空似どころではありません。それらはほぼ同じなのであります。
1875年3月3日に歌劇「カルメン」がパリのオペラ・コミック座で初演されるや、イラディエルの歌曲集「スペインの花」の出版元ル・メネストル社の経営者ウージェルが訴えを起こしたのも、故 (ゆえ) なきことではないのであります。
では、他人の作品を自分の代表曲にしてしまったビゼーは、極悪人だったのでありましょうか?
そうとも言えないようであります。
ビゼーは最初、イラディエルの「エル・アレグリート」を民謡と信じて借用したふしがあります。
その後、それが他人が作曲した歌であることを知った彼は、初演の約1週間後に出版されたシューダン社のヴォーカル・スコア初版の「ハバネラ」の最初のページに、これがイラディエルの作品の模作であることを明記しているのであります。
裁判でもビゼーに悪意がなかったことが認められ、お咎めはほとんどありませんでした。
しかしながら、ビゼーは裁判の行方を見届けることはできませんでした。
「カルメン」初演の3ヵ月後に急死してしまったからであります。
イラディエルもすでに1865年に亡くなっており、結局この裁判は、当事者本人たちとは無関係に、その周囲の利害関係者の間で繰り広げられたのでありました。
その後シューダン社から出された4手ピアノのための全曲版や、ペーター社から出た管弦楽スコアには、原曲の作者についての記載は省かれておりますが、それもビゼーの意思によるものではないことは明らかであります。
なお、興味深いことに、「カルメン」の原作に当たる短編小説を書いた作家のプロスペル・メリメはイラディエルの友人でありましたが、彼も1870年9月23日に67歳で亡くなっております。
以上、ご報告申し上げます---と、ここで締め括るつもりでありました。
しかし、どうにも気になる点がありました。
それは、一体いつ、どこで、どのようにして、ビゼーが「エル・アレグリート」を知ったか、ということであります。
そこで当探偵事務所は、さらに調査を徹底的に進めました。 さすがであります。 すごいであります。 おほめ頂きたいのであります。
その結果、これまた秘められた人間関係が浮かび上がってきたのであります。
問題の人物は、モルトン・ド・シャブリアン伯爵夫人こと、セレスト・モガドールであります。
ビゼーは結婚前、この女性の愛人だったのであります。
1824年に貧しい帽子職人の家に生まれたセレストは、才能豊かな女性でありました。 歌手であり、女優であり、劇作家であり、小説も書き、サーカスの曲芸馬乗りもし、そして国家公認の高級娼婦でもありました。 多くの芸術家の愛人となり、1850年代前半にリオネル・ド・モルトン・ド・シャブリアン伯爵の夫人としての座に収まったのであります。
ところが夫は投機に失敗して身代をつぶし、1859年に遥かオーストラリアのメルボルンで頓死してしまうのであります。 しかし寡婦となったセレストは、持って生まれた美貌と才覚、スキャンダラスな悪名、そして苦労して手に入れた伯爵夫人の称号を武器に、パリ中の注目を集め続けるのであります。
彼女は1865年、パリ近郊のヴェジネの森に土地を買いました。 その秋、家の建築の進捗状況を見に行くために乗った汽車の中で、彼女はビゼーに出会ったのであります。 ビゼーは偶然にも彼女の家の隣の区画に住んでいたのでありました。
この時ビゼー27歳、セレスト41歳。 セレストは自伝で、二人の関係は飽くまでプラトニックなものだったと強調しておりますが、それでも 「ジョルジュに腕を差し出し」「我知らず身をすり寄せた」 ことは認めております。 いずれにせよ、世の中の表と裏を知り尽くした熟女と、内気な若い作曲家との関係がどこまで進展したかは、本人たちのみの知ることであります。
二人の情事は、1869年にビゼーが恩師アレヴィの美しい次女ジュヌヴィエーヴと結婚する前には終わっておりましたが、ビゼーがイラディエルの曲を、出典も知らないまま聴き知ったのは、このセレストを通じてと思われるのであります。
なぜなら、当時カフェ・コンセール (ショー付き喫茶レストラン) にゲスト出演していたセレストの人気の持ち歌の一つが、「アイ・チキータ」、すなわちイラディエルの書いたハバネラ「エル・アレグリート」だったのであります。
ハバネラを歌いながら登場し、生真面目な竜騎兵伍長ドン・ホセを誘惑するカルメン……。
彼女の姿に、ビゼーは奔放なセレストの面影を重ねていたのではありますまいか。
以上、ご報告申し上げます。
《主な参考文献》