| 依頼内容 |
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交響詩「中央アジアの草原にて」とか、歌劇「イーゴリ公」の「だったん人の踊り」などで有名なボロディンという人は、ロシア国民楽派を確立した偉大な作曲家の一人と言われていますよね。
ところが、調べてみると、この人、ものすごく作曲が遅いんです。
ちょっと、次に掲げる曲の作曲年代を見て下さい。
それだけではありません。
合作オペラ・バレエ「ムラダ」第4幕も断片だけだったし、交響曲第3番も未完成のまま。
では、別の大作にかかりっきりで時間がなかったのかというと、そうでもなく、他の作品としては歌曲や室内楽曲がちょっと残されている程度。
一体このポロディンという人は、何でこんなに作曲が遅かったのですか?
大作曲家のくせに、こんなに怠慢な奴は、許せない!!
| 調査レポート |
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ま、ま、お気を静めて。
では、ご報告申し上げます。
まず、ボロディンの作曲の筆が大変遅かったこと、これは事実であります。
例えば、ご指摘にあった歌劇「イーゴリ公」は、1869年から書き始めたものの、台本用の歴史文献・考古学資料の下調べに時間をかけ過ぎ、早々に作曲の情熱を失くしてしまい、書きかけの楽譜は置きっ放しになりました。
友人のリムスキー=コルサコフは、何とか完成させようと考え、「イーゴリ公」の一部を演奏会にかけることにして、先輩ボロディンにはっぱをかけるのであります。
「お書きになりましたか?」
R=コルサコフの矢の催促に、ボロディンは答えます。
「ああ、書いたとも」
R=コルサコフが喜び勇んで行ってみると、書いたのは手紙でありました。
また、なかなかスケッチを総譜(スコア)に書き移さないので、R=コルサコフがやきもきして、
「そのー、何でしょうね、あのオペラの総譜の例の曲は、もう移したでしょうね?」と聞くと、
「うん、もちろん」
「ああ、助かった、やっと---」
「総譜はちゃんとピアノから机の上に移しましたよ」
と、ボロディンは大真面目に答えるのでありました。
いや、落語みたいな話でありますが、R=コルサコフが自伝にそう書いているんだから仕方ないのであります。
いよいよ演奏会直前に合唱の練習をする段になったというのに、楽譜もできておりません。
とうとうR=コルサコフは、弟子のリャードフと一緒に、ほとんど徹夜でボロディンを手伝うことになりました。
時間を節約するため、インクでなく鉛筆で書き、後でスコアをゼラチン液で濡らして、鉛筆の跡が消えないようにします。部屋の中には、ゼラチン液で濡れた楽譜が洗濯物のように並べて干されたのであります。
こうしてコンサートにはなんとか間に合ったのでありますが、この1879年の編曲を最後に、「イーゴリ公」は完全にほっぽり出されたのであります。
現行の「イーゴリ公」は、ボロディンの死後、R=コルサコフとその弟子グラズノフが、残された書きかけの楽譜をかき集め、補筆完成したものであります。
序曲は、生前ボロディンが仲間に弾いて聴かせたのを、グラズノフが記憶をたどって再現しました。
第2幕はR=コルサコフが修正し、第3幕はグラズノフが完成させました。
そして、ほとんど真っ白だった第4幕は、R=コルサコフが事実上、一から書き上げたものであります。
従って、ボロディンの"代表作"とされる「イーゴリ公」は、実は半分くらいは他人の作品なのであります。
しかし、であります。
作曲が遅かったのは、決して怠惰とかぐうたらだからではありません。
彼がなかなか作曲を進められなかったのは、彼があまりにもいい人過ぎたからであります。
どういうことかと言いますと、つまり、人のためにばかり働いて、自分の作曲のための時間を取れなかったのであります。
彼はそもそもプロの作曲家ではありません。
元来は化学者であり、長年、女学校で教えておりました。
真面目で温厚な性格の彼は、友人や生徒から頼まれると嫌とは言えず、過大な仕事を抱え込みました。
また、夜中に素晴らしい楽想が浮かんでも、ピアノに向かうことはありませんでした。
安眠している家族を起こしたくなかったからであります。
そして、朝になると大抵、前の晩の楽想は散ってしまっておりました。
1887年2月16日、ボロディンは心臓病でぽっくりと亡くなりました。
皇帝アレクサンドル3世が反動政治を強行する中、教育界を吹き荒れる粛清の嵐の中で奮闘した挙げ句の死でありました。
残された作品を聴くにつけ、ボロディンがもっと作曲に集中していれば、どんな素晴らしい傑作を生み出したことかと、少し残念な気がいたします。
しかし、あくまで本職を貫き通し、音楽はディレッタント (素人の愛好家) として謙遜し続けたことが、彼の音楽の素朴で懐かしい温かさを生んでいるのかなあ、とも思うこの頃なのであります。
以上、ご報告申し上げます。
《主な参考文献》