| 依頼内容 |
|---|
ガーシュウィンと言えば、ミュージカルや流行歌で大変人気のあった作曲家です。たまたま「ラプソディ・イン・ブルー」が大当たりを取ったため、クラシック楽界からも注目されるようになり、ピアノ協奏曲ヘ調や「パリのアメリカ人」といった交響的な作品も書くようになりますが、元来は100%ポピュラー畑の人です。
その彼の親友が、シェーンベルクだったという噂があるんです。
シェーンベルクは、ご存じの通り難解な無調音楽や十二音音楽を作り出した理論派で、ウィーン貴族社会の厳格な礼儀を身に付けた神経質な人だったそうです。
そんなシェーンベルクが、ラグタイムを弾いたり、フォックストロットを踊ったり、ディキシーランド・ジャズを聴いたり、ミュージカルを楽しんだり……というのは、ちょっと想像できません。
一体、アメリカ軽音楽の申し子ガーシュウィンと、無調・十二音音楽の発明者シェーンベルクが無二の親友だったなんてことが、有り得るのでしょうか?
| 調査レポート |
|---|
ご報告申し上げます。
ガーシュウィンとシェーンベルクが親しかったことは事実であります。
しかも二人はこれ以上ないくらいのマブダチ
だったのであります。
彼らが知り合ったきっかけは、たまたま同じ頃、たまたま近所に引っ越してきた、という偶然でありました。
シェーンベルクは1935年9月に南カリフォルニア大学の作曲科教授となり、翌1936年秋からは、クレンペラーの紹介でカリフォルニア大学ロスアンジェルス分校(UCLA)で教えることとなりました。
そこでロスアンジェルスのブレントウッド・パーク、ノース・ロッキンガム通り116番地へ引っ越しました。
そこにガーシュウィンがいたのであります。
ガーシュウィン兄弟 (兄アイラは有名な作詞家) も8月にニューヨークからビヴァリー・ヒルズの邸宅に越してきたばかりでありました。ハリウッドのRKO映画社が撮るミュージカル映画に作曲するためでありました。
ガーシュウィンはハリウッドの生活を楽しみ、チャップリンの若妻ポーレット・ゴダードに手を出したりしながら、『踊らん哉』 (1936、フレッド・アステアとジンジャー・ロジャース主演) や、『踊る騎士』 (1937、F・アステアとジョーン・フォンテイン主演) の仕事を順調にこなしていきました。
ガーシュウィンは仕事の息抜きにテニスをやりました。
ある日、ウィーンから亡命している現代音楽の大家シェーンベルクもテニスが得意だという話を聞いて、自宅のテニス・コートに招待しました。
これが、二人の大作曲家の友情の始まりでありました。
彼らはまた、絵を描くという趣味でも共通しておりました。
ガーシュウィンの絵の腕前は玄人はだしであり、シェーンベルクに至ってはプロの画家として高い評価を受けたことがあるほどであります。
テニスと絵という共通の趣味を通じて、あるいはお互いの音楽への尊敬を通じ、ガーシュウィンとシェーンベルクは最も親しい友人同士となりました。
1936年末〜37年初めには、ガーシュウィンは油絵でシェーンベルクの肖像画を描いております。
ところが、残念なことに、この麗しい友情は長くは続きませんでした。
突然の病魔がガーシュウィンの命を奪ってしまったからであります。
病気の最初の兆候が現れたのは1937年7月初めであります。
ガーシュウィンは、猛スピードで走っている車から運転していた助手を突き落とそうとしたり、暗い部屋でチョコレートを自分の体中に塗りつけたりします。
7月9日夕方には昏睡状態に陥り、病院で脳腫瘍と診断されたのであります。
我らの国民的作曲家を救え!---アメリカ政府の対応は迅速でありました。
ホワイトハウスは海軍の駆逐艦2隻を出動させ、神経外科の第一人者W・ダンディ博士の乗ったヨットをチェサピーク湾で探し出し、オートバイに先導させてメリーランドのニューアーク空港へ連れて行きました。
しかし間に合わないと見るや、もう一人の専門家をロサンジェルスに送り、ニューアーク空港のダンディ博士と電話で連絡を取らせて手術を始めさせたのであります。
しかし、手遅れでありました。腫瘍は手術で取り去ることができないほど大きくなっていたのであります。
アメリカの誇る世界的作曲家ジョージ・ガーシュウィンは、1937年7月11日、早すぎる死を迎えたのでありました。まだ39歳の若さでありました。
シェーンベルクはラジオで弔辞を読み上げました。
彼はガーシュウィンがいかに楽才豊かな希有の音楽家だったかを強調してから、次のように付け加えたのであります。
「私は自分にとってかけがいのない、愛すべき友人を失いました。」
友情は、国も年齢も、宗教も信条も、調性もスタイルも越えるのであります。
以上、ご報告申し上げます。
《主な参考文献》