1980年代後半に登場したポップ・インドネシアの新しい流れ。
英語なら「クリエイティヴ・ポップス (Creative Pops) 」となろうが、英米ポップスにはこのようなジャンルはないので、インドネシア独特の分野と考えて良い。
特徴として、それまでのウェットな情感にまみれた歌謡曲に較べ、メロディーの動きが自由で、ハーモニーも長7度 (メジャー・セブン) や転調を大胆に用いて新鮮さを与え、歌詞の内容ともども都会的で洗練されたポップス音楽と言える。
ジャズやフュージョン、ボサノバなどのラテン音楽、さらにはロックの要素を取り入れながら、次第に現在のポップスに発展していった、という意味では、旧来型の歌謡曲と、現在の「ポップ・コンテンポレール」の橋渡しを果たした。
従って、現在の若者向けポップ・インドネシアはほぼ全てこの「ポップ・クレアティフ」の延長線上にあるが、「ポップ・クレアティフ」というジャンル自体は歴史的役目を終えたと考えられる。実際、「ポップ・クレアティフ」という言葉を聞くことも、今やほとんどない。
ポップ・クレアティフの誕生は、1977年、ジャカルタの民放FM局Pramborsが開いた「青少年作曲コンクール」で、ジェームス・F・スンダー作曲「Lilin-lilin Kecil (小さなロウソク)」を新人クリシュが歌い、優勝した時に遡るとされる。
しかし時代はまだフォーク風のニュー・ミュージックが全盛で、エビート・G・アデらが人気を集めていた。
ポップ・クレアティフが急速に広まりはじめたのは1980年代中期で、当時インドネシアのポピュラー音楽界で権威のあったBASF 音楽大賞が「ポップ・クレアティフ」という部門を作り出し、より欧米風のモダンなポップス指向の強い楽曲作りを後押しするようになったことが大きい。
ポップ・クレアティフを推進した人々には、次のようなアーティストがいた。
〔ソングライター〕
- デディ・ドゥクン
- ディアン・プラマナ・プトラ (Dian Pramana Putra)
- ファリッツ RM (Fariz RM)
- インドラ・ルスマナ
- リチャード・キョート (Richard Kyoto)
- チュチュップ AS (Cecep AS)
- アンディ・マパジャロス (Andy Mapajalos)
〔歌手・グループ〕
1992年、BASF 音楽大賞は「ポップ・クレアティフ」部門の名称を「ポップ・コンテンポレール (Pop Kontemporer) 」(=コンテンポラリー・ポップス)と変え、KLa Projectの「心変わりは出来ない」に賞を与えた。
これが今日のポップ・インドネシアに続いている。
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